名の無い手紙 ②

 一度彼女に、何故この文通を始めようと思ったのかを聞いたことがある。まじめに相手にされないかもしれなかったこの文通を。



『こういう言い方は学生として良くないのかもしれませんが、正直、私は大学に飽きてたのです。それもかなり。講義はあまりおもしろくないし、気の合う友達もいないし、下宿も大学からそんなに近くないし、通うのでさえ、億劫になっていたのです。それでも大学には通わないといけないから、どうにか楽しみを見つけようと思って、それでこの文通をおもいついたのです。もちろん、あなたが言うように、おざなりに対応される可能性もあったわけですが、なんとなく、この手紙は誰かに届くだろうなと思っていました。それも、あなたのような気の合う人に。あのような分かりづらい場所にこの手紙を仕掛けたのも、そういうおまじないのつもりでした。


 でも、今こうやって文通を楽しく続けられているのも、あなたのおかげだと思っています。あなたがこの手紙を見つけて、丁寧にお返事も返してくれたからこそ、私は今日も楽しく大学に通えています。本当に感謝しているのですよ。あなたの名前も、顔も、年齢も分からないけれど、私はあなたに出会えて良かったとおもっています。厚かましいですが、あなたも私と同じ気持ちだったらいいなと思います』



 僕はこの手紙を読んで、えもいわれぬ気持ちになった。顔が紅潮して、心臓のBPMはパンクロック並みに跳ね上がった。ついにやけ顔になってしまう。中庭の人たちは、僕のにやけ顔にはもう見慣れてしまったのか、今では何も気にならないようだ。


 僕はこの時、初めて自分がこの女性に恋をしているのだと気が付いた。それに気づいてから、なおさら気分は高揚し、手紙を持つ手に汗がにじんだ。


 彼女の言う通り、僕も彼女も、お互いの姿を知らない。それでも、今まで会ったことがなくても、この恋は本物だと感じた。



 それからいくつかの手紙を交えたが、どれもこれまで以上に緊張してうまく書けず、何度も推敲を繰り返した。書いている内容は今までのものとさして変わらないはずなのに、そこには幾分の期待と見栄が含まれていた。

そのようにしてボツになった哀れな手紙がゴミ箱を埋め尽くした時、僕はある決意をした。


 彼女に会ってみよう。


 世間一般がどうなのかは分からないが、文通相手と直接会うというのは邪道というか、ある種のタブーのようなイメージを僕は有していた。こと僕と彼女の関係においては、アダムとイヴが禁断の果実を口にするかの如き危険性すら感じられた。


 それでも、僕はこの衝動を抑えることができなくなってしまう程に、僕の恋は急速に肥大化していた。会ってどうこうしようというつもりは無い。僕はただ、(ほとんど)初めて気の合ったこの女性と、直接会って話したいだけなのだ。どんな容姿をしていて、どんな声で話して、どんな名前なのか、僕はともかくそれを確かめたかった。おおかたの恋がそうであるように、恋とは情動的なものであり、それはある種の人間としてのバグでもあるのだ。



 そして長い、それは本当に長い時間かけて書き上げた手紙を、ついさっき例の位置に忍び込ませた。


 僕にとって君との文通は日常の支えだし、楽しみでもある。むしろ、このためにわざわざ大学に通っているようなものだ。君のような素敵な友人ができたことに本当に感謝している。もしよかったら、一度僕と会ってくれないか。


 実際にはもっと丁寧な言葉遣いだったが、手紙はだいたいこんな感じだったと思う。



 彼女はあの手紙を読んで何を思うだろうか。思考がぐるぐると回る。しかし、今更何を思ってももう遅い。手紙はあの人気の無い机の下に決まり良く収まってしまっているのだ。禁断の果実が我々に何をもたらすかは、今のところ誰にも分らない。秋風にさらわれてカサカサと転がる枯葉は、まるで今の僕の心情を映しているようだった。そろそろコートを出さないとな、と僕は思った。



 翌々日、僕が手紙を回収する日になって、僕はあの場所へ向かった。盆には見事なオムライスが載っている。正直なところ、彼女がなんて返事をくれるのか、皆目見当もつかなかった。


 机の下に手をやると、そこにいつもの紙の感触はなかった。机の下に屈んで探しても、どこかに落ちてないかと見渡しても、手紙を見つけることはできなかった。この時、僕は人生で最も後悔をした。ああそうか、と僕は思った。あんな手紙を書くべきでは無かったのだ。僕の心の叫びは、あくまで心の中だけに留めておくべきだったのだ。


 でも、と僕は思った。でも、これで良かったのかもしれない。淡い期待を抱き続けるよりも、こうしてキリ良く断ち切られた方が、僕としてもまだ格好がつくといえるだろう。


 その日のオムライスは、いつもより塩辛く感じた。中庭では突風が吹き、ビニール袋やら菓子パンの袋やらを巻き込んで通り抜けた。なぁ、僕もそれに乗せてくれないかな。

 


 しかしそれからも、僕は毎日あの机の下をチェックした。もしかしたら彼女からの手紙があるかもしれない。そう思って、毎日欠かさず手を入れた。何か一言でも欲しかった。「もうやめましょう」でも、「最低」だけでもかまわなかった。毎日、あるはずの無い手紙を探していると、時々とてつもなく悲しい気分になった。そしてその度に彼女に追加の手紙を書こうと思ったが、考え直してやめた。



 最初に手紙が来なくなってきてから約一か月、十二月に入り本格的な寒さが我々を襲ってきた頃、それは突然現れた。そこには何の兆候も無く、僕はその日いつものように机の下に手を伸ばした。僕のその行為は既にほとんど無意識化で行われていたため、僕の指先に触れた紙の感覚に、僕は一瞬気づくのが遅れた。驚いてその紙を取り出すと、それはつい一か月前まで僕と彼女との間で交わされていた手紙であることがすぐに分かった。手紙は相変わらずノートの切り離しで、宛名も差出人も何一つ書かれていなかった。


 僕は深い深呼吸をして、その手紙を開いた。



『一か月物間、あなたへのお返事の手紙を出さなかったことについて、まずは謝らなければなりません。本当にごめんなさい。でも、あなたに分かってほしいのは、私にも随分と長い葛藤があり、迷い苦しんだということです。こんな言い訳を見てあなたは怒るかもしれません。でも、それだけは分かっていてもらいたいのです。


 あなたからあの手紙を貰ったとき、私はとても驚きました。なにせ会うという選択肢は今まで私の中では浮かんでなかったからです。でも、勘違いしないで欲しいのは、私がそのことについて不快に思ったり、迷惑だと思ったりはしていないということです。むしろ正直なところ、とてもとても嬉しかったです。私にとっても、あなたという友人と出会えたことは奇跡に近い喜びです。ここ一年の文通は私に力を与え、乾いた心を潤してくれました。本当ですよ。文通している間、辛くて苦しいことがあっても、あなたの手紙を読んでると、不思議と心が軽くなっていくのです。


 時々、あなたの言葉には本当に魔法がかかっているんじゃないかと思ったぐらいです。だから本当は私もあなたに会いたいと思ったのです。


 でも、会いたいと思うと同時に、不安な気持ちも湧き上がって、瞬く間にそれは私の心を覆いつくしました。私はあまり容姿に自信がありません。だから、この姿を見て幻滅されたらどうしようとか、もうこれまでの関係には戻れないのではとか、そういうことばかり考えてしまうのです。今までが素敵で充実した(と私は思っています)関係だったからこそ、それが壊れるのが極端に怖くなりました。勝手な女だと、私も思います。私は弱い女なのです。


 信じてもらえるかは分かりませんが、これまで幾度もお返事の手紙を書こうとしたのですが、うまく言葉が綴れず、この手紙も何度リライトしたか把握していません。


 たぶん、私はあなたに恋をしているのだと思います。顔も名前も声も知らないあなたにです。馬鹿げている、無謀だと周りからは思われるかもしれませんが、この気持ちは真剣です。真剣だからこそ、怖いし、悩むのです。だから、この一か月お返事の手紙を出せなかったことを、許してほしいとは言わずとも、せめて分かってほしいのです。


 先程も書いたように、私はあなたに恋をしています。あなたのことが好きなのです。私はこの気持ちをあなたに会って伝えたい。ちゃんと会って、ちゃんと謝ってから伝えたいのです。


 しかしながらこれほどまで返事をせず、あなたを困らせてしまったのに、いまさら会ってほしいなんてのは虫が良すぎますよね。だから、あなたには無理に来てほしいとは頼みません。もしあなたがまだ怒っていて、許せないのであれば、わたしのことなど気にせず忘れてください。でももし、万が一あなたに私に会ってもいいという気があるのであれば、私と会って話してくれませんか?


 今日(十二月〇日)、十七時、もし会っていただけるのであれば、大学前の喫茶店で私は待っています』



 手紙を読み終えたとき、僕はいつの間にか泣いていたことに気がついた。謝りたいのは僕の方だ。感謝したいのは僕の方だ。涙で濡れた手紙に書かれた日付はしっかりと今日だった。僕は、おそらくこれが最後の文通になるだろうと思った。僕は涙を拭った。



 大学前の喫茶店は昔からあるこじんまりとした喫茶店で、一人の老婦人が切り盛りしている、雰囲気の良いお店だ。最近はしばらく行ってなかったな、と思いながら店に入ると、奥の席に可愛らしい黒髪の乙女が座っていた。彼女はカプチーノを頼んだらしく、湯気はまだ上がっていた。


僕は彼女の前に座り、「はじめまして」と言った。


「はじめまして」と彼女も言った。

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