名の無い手紙 ①

 その宛名の無い手紙を見つけたのは丁度一年前、今日と同じような秋特有の心地よい寒風が吹いている日だった。



 僕はその当時大学二年生で、退屈な授業と変わり映えのしない毎日にいい加減うんざりとしていた。特に興味もない地理の話やら教育学の話やらをまじめに聴き、暇ができれば図書室に行って課題をこなし、家に帰って適当な自炊をして食べ、好きな小説を読んで眠る。ほとんどがこれの繰り返しだった。だから一年前、この手紙を見つけたとき、いささか不気味さはあったものの、同時にワクワクもした。


 僕はその日、老いぼれた教授の老いぼれた話を聞いたあと、いつものように大学食堂に向かった。この大学にはいくつか食堂があったが、僕がよく行っている食堂はだいたい二百人くらいが入れる食堂で、この大学で最も大きな食堂だった。僕はそこのオムライスを気に入っていた。


 僕はオムライスの載った盆を持って、窓際のあまり目立たない席を選んで座った。そこはすこぶる人気のない席で、騒がしい人たちが僕の食事を邪魔することがないからだ。僕はだいたい一人でランチを食べたし、そうすることを好んだ。


 窓からは中庭のテーブルで数人のグループがサンドイッチをつまみながら楽しそうにお喋りをしていた。僕は声高らかに笑う彼らを見ながら、サンドイッチの形について考えた。どうしてだいたいのサンドイッチは二等辺三角形なんだろうとか、たぶんそういうくだらないことを。


 その時、僕は手に持っていたスプーンを落としてしまった(今考えると、僕がここでスプーンを落とさなかったら物語は始まっていなかった。もっと言うと、サンドイッチについてくだらない考察をしていなければ、僕は今も変わらず退屈な日々を送っていたはずだ。サンドイッチに感謝)。


 スプーンを拾おうと屈んだ時、僕の食べていた場所の長机の裏に、なにやら薄いものが挟まっているのを見つけた。それは長机の角から角へ十字に繋いでいる細長い金具の隙間に差し込むように入れてあった。


 僕はそれを抜き取り、多少の警戒心を抱きながら興味深くまじまじと観察した。その紙はどうやらノートを一枚切り取り、それを半分に折ったものらしかった。紙を開くと、真ん中の方にとても奇麗な字で、


『こんにちは。見つけてくれてありがとう。私と文通しませんか?』


とだけ書いてあった。書かれていた文字は本当にそれだけだった。その紙の裏も表も、隅から隅まで探したが、差出人も、日付も、宛名も書いていなかった。文通、と書いてあるのだから、これは手紙なのだろう。僕はその手紙を「名の無い手紙」と名付け、家に持って帰った。



 家に帰ってから改めて読むと、なんだか凄い手紙のように感じた。例えば僕じゃない誰かがこの手紙を見つけたとして、この手紙を読んだ後に、ただのいたずらだろう、と捨てられる可能性だってあったし、そもそも半永久的に見つからない可能性だってあったのだ。


 でも結果この手紙は僕に見つかり、そして僕は返事を書こうとしている。もちろん、この手紙がいつに書かれたものなのかは分からない。でも不思議と、そこまで昔に書かれたものではないだろうと感じた。一週間前か、長くても一か月前か。この手紙はそう思わせる不思議な魅力を発していた。


 僕は彼女(女性らしい奇麗な文字と、一人称に私を使っていることから、僕は手紙の書き手が女性だろうと推測した)に倣ってノートの一枚を破り、それに返事を書いた。


『こんにちは。始めまして。文通お願い致します』


 僕はそれに宛名も日付も自分の名前も書かず、同じように食堂の、あの目立たない窓際の机の裏にしのび込ませた。



 翌日、オムライスと共に例の席に座り、机の下を確かめた。そこには僕の手紙も彼女の手紙もなかった。どうやら既に持って行かれたようだ。僕は大量のケチャップがかかったオムライスを頬張り、手紙の返信について想像を膨らませた。いったい誰が、何の目的であの手紙を書いたんだろう。考えただけで不思議と心が躍った。


 そしてまた翌日、二限が終わり僕は足早にあの席へと向かった。

机の下に手を入れると、紙の感触があった。僕は周りを見渡し、少し警戒してから手紙を取り出した。もし第三者に見られてでもしたら少し面倒なことになるかもしれないと思ったからだ。手紙はやはりB5サイズのノートの切れ端だった。

心臓の高鳴りを感じながら手紙を開くと、こう書いてあった。


『わあ! 嬉しいです。こちらこそよろしくお願い致します。まさかお返事が頂けると思っていなかったので、今とても驚いています。これから楽しみです』


 相変わらず、名の無い手紙だった。手紙に感嘆符を付けているのを見ると、余程嬉しかったのだと思われる。それにしてもきれいな字だな、と僕は思った。人の心に直接届くような透き通った字。僕は3年ほど習字を習っていたのだが、この字はそういった様式の字では無い美しさのようだった。


 僕はその手紙を二、三回繰り返して読んだ後、折り畳んで大切にカバンにしまった。僕の方も、返事が来たことが予想以上に嬉しくてついにやけてしまっていた。その様子に気付いた中庭の生徒が、怪訝な顔をして遠くに離れていった。僕は多少傷ついたが、まあしょうがないかなと思った。オムライスを食べながら一人でにやけている人がいれば、僕だって近づきたくない。



 その名の無い手紙のやり取りはほとんど毎日続いた。手紙を机の下に入れてから読まれるまで一日空くし、土日休みや長期休暇には一時中断せざるを得なかったので正確には毎日とは言えないが、ともかくそれは一年後の今日に至るまで続いている。


 彼女は二限が空きコマらしく、いつもその時間にあの食堂のあの席に座って一人でランチをたべるという。だから二限に講義が入っている僕とは顔を合わせないし、うまく手紙の交換もできるのだ。


 それにしても毎度あの席だけうまく空いているのは言いようのない僥倖である。どれだけ食堂が混んでいても何故かあの席だけはぽつんと空いており、僕はいつもその席にうまく座ることができた。こうなると何か魔法がこの席にかけられているのではと思ってしまう(本当は奇跡的なまでに人気の無いだけだろうが)。


 僕と彼女の文通は、概ね日常の些細なことについてだった。休日は何をしていますか?好きな食べ物は何ですか?昨日のM1見ましたか?僕はあのコンビが優勝すると思っていました。そいった本当に些細なやりとりを繰り返していくうちに、だんだんと彼女のことが分かってきた。


 彼女はやはり女性で、好きな食べ物はコロッケ、趣味は僕と同じく読書、お気に入りの作家はフィッツジェラルド、好きな音楽はビートルズ、三歳年下の妹がいる、月水金の朝には散歩をするのがルーティーン、一人暮らしで最近は自炊に凝っている、彼氏はいない(いない歴=年齢)。


 どうやら彼女も一人でいる方が好きなようで、本の趣向もかなり似ていた。だから自然と会話(と言っていいのか分からないが)も弾んで僕としてはそれなりに楽しく文通することができた。手紙の分量も日を増すごとに増えていき、今では手紙いっぱいに文字が埋まる事も珍しくない。ただ、それだけ親交が深まっても、決して互いに名前やそれに繋がるような情報は書かなかった。そして、ノートを破いて手紙にするという方法も変わらなかった。それはお互い暗黙のルールとなっていた。 つづく

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