こころの泉

碧喩 優

歯車

公園の噴水を、こんなにもまじまじと見たのはいつぶりだろう。鼠色のレンガで円形に囲まれた噴水。大きさは五mくらい。噴き上がっている水の高さもたいしたものじゃない。


噴水の周りには鳩が数羽、噴水の飛沫を楽しんでいた。よく見る汚い色のした鳩だ。


平日の昼間ともあって、公園はガラリとしている。杖をついた老婦人が一人、秋の紅葉を楽しむように散歩をしていた。


僕は特別、噴水が好きなわけではない。公園にしても、僕は頻繁足を通わせるタイプじゃないし、実際ここに来たのも半年ぶりくらいだった。そもそも、平日の昼間から公園のベンチで一人、噴水を眺めている男なんて“そういう人たち”か僕くらいだろう。


でも今日は、こうやってあてもなく噴水と鳩を眺める必要があった。こういう場所にでも来ないと、僕の心は落ち着きそうもなかったから。


正午のチャイムが、地域放送用の有線から流れてきた。それは、僕がここに座ってもう二時間が経過することを知らせるチャイムでもあった。


そろそろ帰ろうか、と僕は思ったが、今さらどこに帰れるというのか。今の僕に帰る場所は無いし、あったとしてもそこは僕を受け入れてはくれない。僕は今、進むことも戻ることも許されていない状況なのだ。


いっそこのまま旅に出るのも良いかもしれない。北海道の、うんと北の方に。東京でも肌寒くなってきた。あちらはもっと寒いはずだ。


そんなことを考えていると、遠くからこらに向かってくる女性が見えた。


彼女は何も言わず僕の隣に座り、煙草に火をつけた。銘柄はマルボロだった。それから一吸いして、「吸っても良かったかしら」と僕に言った。


「かまいませんよ」と僕は言った。僕はどちらかと言うと煙草は苦手だったが、もう吸い始めている人に対してはもう言うこともない。


彼女は見たところ二十代後半で、黒いスーツを着ていたので大方会社員だろうと予想した。長い髪を後ろで束ね、いかにも仕事のできるキャリアウーマンらしかった。今はお昼休憩なのだろうか。


「ねえ君、随分と浮かない顔をしているけれど、何かあった?」と彼女は煙草を吸い終え、僕に言った。僕はそれには答えなかった。「もしかして、恋人と喧嘩したとか」


「てんで違いますね」と僕は咄嗟に嘘をついた。その時どうして僕は嘘をついたのか分からない。それはあくまで自然に、しかし同時に大胆な嘘だった。


「ふーん」と彼女は言って、二本目の煙草に火をつけた。「その子の所に行かなくてもいいの?」


彼女はなぜか僕の嘘が分かっているようだった。それどころか、全て筒抜けのようにも感じた。僕はあきらめて、正直に話すことにした。


「もうどうしようもないんですよ。今更戻れない。戻ったって、合わせる顔がありません。

それだけのことを僕はしてしまったんです。狂い始めた歯車は、もう元にはもどらないんです」と僕は地面の細かい砂を眺めながら言った。


彼女は何も言わず、ただ煙草を吹かしていた。しばらく沈黙が続いた。鳩はもうどこかに行ってしまったようだ。


「歯車ね」と彼女はどこか遠くを見るように言った。「確かに、一度狂った歯車はもう自然には戻らない。それは他の歯車と合わさって不可解な動きをしているかもしれないし、あるいはギチギチに固まって動かなくなっているかもしれない。そしてそれがどのような形にせよ、君はもう元に戻すことは不可能だと考えている」


僕は何も言わず頷いた。


「でもね、そこが間違いなのよ。一見、バラバラになった歯車も、そこに何かパーツを組み合わせたり、あるいは解体して一から作り直したりすることで、それはまた正常に動き出すの。多くのからくり技師がそうするようにね」と彼女は言った。


多くのからくり技師がそうするように、と僕は心の中で繰り返した。本当にそれでうまくいくのだろうか。もし仮にそうだとしても、修復するにはきっと多くの時間と労力が必要だろう。追加の歯車なんてものも、僕は持ち合わせていない。今の僕には、使えるものなんてひとつもないのだ。


「まあ当然だけど、そこには果てしない時間と労力かもしれない。でも、皆そうやって、何かを壊したり、治したりしている。そうでしょう?」と、彼女は僕の心を読んだように言った。


僕は『皆』という言葉が昔からあまり好きではなかった。皆という言葉は、いささか便利すぎる。とくに、こういった場面においては。


「じゃああなたが、そのパーツやら組み立てをしてくれるのですか?多くの時間と労力を割いて。それを行うのは、どこの誰でもなく僕なんです。無責任なことを言わないでください。本当は僕もそんなこと分かっています。でももうそんな時間も力も残されてないんです。僕だってやれるだけのことはやってきたつもりです」と僕が感情に任せてそう言った後、女性は少し悲しい顔をした。


「すみません」と僕は小声で言った。「でも、分からないんです。どうしてこうなってしまったのか、これからどうしたらいいのか、分からないんです」


それからまた深い沈黙があった。彼女はもう煙草を吸っていなかった。


「そうね…」


それから彼女は、僕の唇にキスをした。


とても長いキスだった。あるいはそう感じただけかもしれない。煙草の苦みが、彼女の気持ちの表れであるかのように感じた。噴水も風も傷ついた心も、その時だけは僕らの口づけが終わるのを、静かに息を潜めて止まっていた。


唇がそっと離れて、僕が呆気にとられていると、彼女はにっこりと笑って見せた。


僕ははっとして、何か言わなければと思ったが、思考をうまく口に出せなかった。

彼女は立ち上がり、「じゃあもう行くから」とだけ言い、ぼくに半分ほど入ったマルボロの箱を渡し去っていった。僕はしばらく、そこに立ち尽くすことしかできなかった。


東京の下町、木造の古いアパート、そこがぼくらの部屋だった。僕は軋む階段を、緊張しながら登った。話す内容は特に考えていなかった。とにかく、きちんと頭を下げてあやまろう。それからどうするかは、その時の僕がきっと決める。"多くのからくり技師がそうするように"。僕はなぜかその言葉を思い出した。


僕は鍵を開け、ゆっくりと扉を開いた。


部屋はしんと静まりかえっていた。名前を呼んでも、返事はない。よくみると、リビングの机の上に、一枚の紙が置かれていた。そこには見覚えのある字で「今までありがとうございました。さようなら。」と書かれていた。


どうやらもう遅かったらしい。歯車も何も、既にもう無くなってしまっていた。


タンスには僕の衣類だけが残され、決まりが悪そうに右側だけぽっかりと隙間が空いていた。


僕は右手の薬指にはめていた指輪を外し、排水溝に流した。


それから、ベランダに出て、ポケットに入っていたマルボロを一本吸った。何度もむせながら、大粒の涙を流しながら、僕はそれを吸い切った。


煙草は吸うたびに、あの一瞬とも思える永遠を、苦いフレーバーを通して、僕にありありと思い出させてくれた。

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