「戯言な愛、そして夢の中」

ゴジラ

「戯言な愛、そして夢の中」

 目を覚ます直前、バラの香りが鼻腔の門先をついた。寝起きの倦怠感より一手先にバラの香りがやってきたものだから自然とその出所を探るように身体を起こしていた。しかし、田臥マカロニの住む7畳ほどのワンルームにはバラの香りを立たせる香源などあるわけがなく、鼻から大きく空気を吸い込んだところで、昨晩食い残したカップラーメンの存在感が際立っただけだった。


「なんだか変な夢を見た」


 田臥マカロニは心の中でそう呟いて、大きな腹をポリポリと音を立てるように掻きむしってから小便をした。便器に注がれる小便の刺激ある匂いがツーンと鼻頭を触った。それから大きなゲップもして、田臥マカロニのケツからは大きな放屁が鳴った。不快な匂いで鼻を濁してから部屋に戻って来たところでバラの香りの出処が浮いて出てくるわけがなかった。


 田臥マカロニの職場は自宅から自転車を10分ほど走らせた先にある大手海底研究所である。

 田臥マカロニは通勤のひとときをこよなく愛していた。太平洋に面した立地は潮風を存分に受けて立ち、快晴であれば水面の返した日照りを身体いっぱいに浴びることもできた。

 田臥マカロニは若くして世界で指折りの優秀なエンジニアであり、その仕事内容は激務且つ大義であった。彼の任される研究開発には今後起こり得る災害に大きな貢献を果たすと期待されていた。その反面、田臥マカロニの肩には大きな重圧もあったのは言うまでもない。深夜まで及ぶ研究開発と検証の日々に疲れきると、このまま海に流され消えて無くなりたいと思うほどでもあった。

 近い将来、大きな地震が日本を襲う。

 そう言われてから数年が経った。いつか来るあの日を想定して、気が遠くなるほどの研究を積み重ねてきた。

 海のプレートが陸のプレートに沈み込み、その反動によって発生する大地震を未然に防ぐため「対大型大陸地震海底研究案」を考案し、その第一人者となった。日々変動するプレートの動きを予測し、特殊形状記憶合金製の数億本からなる特注剣山を仕込んだ「岩盤折衝緩和機」を探索用潜水ロボットに仕込ませ、両プレート間に埋め込むことで、プレートが弾けた反動を緩和させる。

 それは田臥マカロニ自身が潜水艦に乗り込み、長い期間海底に篭ってはそんな作業を延々と行なっていた。それも日本列島を取り囲むプレートに沿って均等間隔に設置する途方もないこの作業には緻密な計算と深い知識が必須である。

 だから彼の変わりなどいない。田臥マカロニという男でなければ達成は不可能な大役である。

 それなりのやりがいもあった。俺がやらなければ、何十万人もの日本人の命が犠牲になってしまう。だからこそ、自分の人生の全てを投げ打ってでもやり遂げなければならない。

 それほどまでに緊迫した使命感に埋もれる日常を過ごしていた。


 だが、そんな研究一筋の彼にも一つの色事があった。

 経理部の春巻アヤナに恋をしていたのだ。無論、相手を想えば辛い研究の日々に喝を注ぐ原動力にもなっていた。しかし未だ彼女とは一度も話したことはない。研究の成功確率よりも難易度の高い恋をしていると自覚もあった。

 世間の端から覗くだけの叶わぬ恋に焦がれ、星の名を夜空に叫び願うばかりの淡く無価値な時間の経過は、研究結果よりも田臥マカロニをやきもきさせていた。


『凪の静寂が更なる深淵へと沈んだ。ワンピースを靡かせ、哀愁の胡蝶蘭のごとく純白の花びらを。あゝ。春巻アヤナさん。君の存在は皆目見当もつかない未来に心を馳せる邪推な私の魂を浄化する。将来は照りつける日の光ほど眩しく、惰弱な私は目を閉ざし、ただ一人、真実を知る。闇夜の海底作業と同様に身をまかせるその一様は、まるで去勢された子犬の叶わぬ恋と同じでしょうか』


 なんて手紙を書いたりしたが、なんだか理解し難い好意の押し付けで、欲に溺れた不潔な男の想いがまるで射精しただけの自己快楽的駄文のようにも読み取れて、余計に嫌な気持ちになった。


 この日は久しぶりにランチタイムの定刻には昼食にありつけた。普段は忙しくて研究の片手間で済ませていたが、春巻アヤナを一目でも見られるかもしれないと思って社内食堂へと足を運んだ。

 食堂の列に並ぶと、誰もが田臥マカロニを前の順番へと譲った。まるで彼を輸送するようなあり様で、田臥マカロニが「大丈夫です。ちゃんと並びますから」と言ってもその意思は聞き入れてもらえず、前へ前へと運ばれて行った。

 研究所の誰もが彼を倦厭しているからではない。

 これは才能のない他の研究職員たちの最大限の配慮と敬意の表し方の一つであるだけなのだ。

「田臥マカロニに日本の命運が任されている」「田臥マカロニは昼夜問わず研究に身も心も投げ出している」「田臥マカロニは1分1秒も無駄にはできない」

【だから、彼の邪魔になってはいけない】

 田臥マカロニも、彼らの配慮は嫌ほど理解していた。齢35歳にして天才研究者の烙印を押された自分には誰も寄り付こうとしない。しかも、国から支給される研究予算だって世間では「マカロニマネー」と揶揄された言い回しで、青天井に与えられているのだ。時には批判の声も投げかけられることもあった。それでも孤独と戦い、死にたくなるほどの虚無感も自分の使命の一つだと言い聞かすことで、なんとか平静を保っていた。

 牛玉丼定食を注文し、空いたテーブルに腰を下ろした。もちろんのこと、彼の座るテーブルには誰も相席しようとしない。そして3分も経たずに、田臥マカロニの注文の品はテーブルへと運ばれてきた。食堂のスタッフにも配慮は行き届いているからであろう。

「頂きます」と、ため息をつくように呟いて、箸を進めたときだった。

「よっ。マカちゃん。調子はどうだい?」

「あ。どうも」

 声をかけてきたのは、海底研究所副所長である蟹田フランシスだった。気さくな人柄の彼は田臥マカロニに気軽に声をかけられる数少ない職員の一人だった。彼は鯖の定食を持って田臥マカロニの向かいの席に座った。

「明日、飲み行かない?」

「え、えっと……」

 明日の予定を思い出そうと食堂の天井を見上げた。天井に設置されているプロペラ式の空調が目に止まった。なんだか潜水艦の推進器に似ているなあ。なんてことを思った。

「忙しい?」

「あっ。明日から潜りますので」

「ああ。そうだったのか。今回は長いのか?」

「一週間ほど」

「どこ?」

「フィリピン海から豊後水道まで」

「埋めるのか?」

「はい」

「嬉しいね。四国は俺のふるさとなんだ。これで安心なんだな」

 もう大丈夫です。と言いかけたが、田臥マカロニはこれ以上の言葉を控えた。長年地震の研究をする田臥マカロニだからこそ「絶対に安全です」などとは簡単に言い切れなかった。

 それに最近になって新たに気がついた変化もあった。ちょうど、蟹田フランシスにもその報告をしようと思っていたタイミングでもあったから、田臥マカロニは口を開いた。

「あ、あの」

「ところで、マカちゃん。彼女は?」

 言いかけた言葉は饒舌な蟹田フランシスの言葉にかき消され、しかも思わぬ質問に吹き出しそうにもなった。

「ど、どうして?急になんですか?」

「君も、もういい歳だろう」

 田臥マカロニの困った様子なんて気にも留めず、蟹田フランシスは話を進めた。

「君もそろそろ幸せになったって良いんだよ。好きな人の一人か二人はいるんだろう?」

 春巻アヤナの顔が浮かんで、体温が上がった気がした。冷たい水を一気に飲んでごまかした。

「いえ。研究ばかりですから」

「そんな時間ないってのか?」

「ええ。まあ」

「じゃあ。紹介してやろうか」

 またも、吹き出しそうになった。彼が話している間は食べるのをやめようと思って箸を置いた。

「紹介ですか……でも」と春巻アヤナを想う田臥マカロニには躊躇いがあった。

「大丈夫。良い子だし。別嬪さんだ。それに理解もある。きっと君も気に入るさ」と言って、蟹田フランシスは食堂内をおもむろに見渡し始めた。

まさかと思った。

「まさか、この研究所の人ですか?」と切り出そうとしたとき、「いた!おい!」とすでに声を張り上げて、蟹田フランシスは叫んでいた。

「春巻さん!こっち!こっちで飯食おう!」

 まさかが現実になった。田臥マカロニは慌てふためいた。しかし春巻アヤナは当たり前のようにこちらにやって来て、一礼をしてから田臥マカロニの隣に座った。

「彼女は経理部の春巻アヤナさん。マカちゃんのことは説明しなくてもわかるよね?」と蟹田フランシスは互いを紹介した。

「はい」と春巻アヤナは頷いてから静かに答えた。

「今度、二人で食事にでも行きなさい。前々から春巻さんはマカちゃんのことが気になっていたそうだ」

「ちょっと。蟹田副所長」と照れながら春巻アヤナは制止を入れた。

 それを蟹田フランシスは無邪気に笑ってごまかし、「じゃあ、邪魔者はこの辺で」と言ってその場を去った。

 それから昼休みが終わるまでの間、お互いの話をした。今まで知り得なかった彼女の情報が次々と脳内に収まっていく感覚は、性的快楽以上の喜びだった。

「明日から海に潜られるんですか?」とアヤナは聞いた。

「はい。一週間ほど行きます」

「大変ですね。でも、お忙しいのに私なんかと一緒にお食事に行って頂けるなんて。本当に良いんですか?」

「そんな。僕も嬉しいです。次の航海から帰って来たら、必ず」と田臥マカロニは言った。

「はい」と笑顔で答えた春巻アヤナは美しかった。



 田臥マカロニは目を覚ました。

 不思議な夢を見ていた気がした。春巻アヤナとデートに行く夢だったように思える。その証拠に田臥マカロニの下着は夢精したばかりの精子で濡れていた。

 窓の外に目をやると暗闇だった。時計は深夜3時を回ったところだ。もうじき朝が来る。バラの香りが鼻をついて、田臥マカロニを睡眠から覚醒させたようだった。

 彼の隣で静かに眠る春巻アヤナの髪に鼻をつけた。

「良い匂いだ!」

 なんて大袈裟なまでの感動を覚えるほどだった。バラの香りの正体は春巻アヤナの髪の匂いだったのだ。

 それから荒っぽく髪を撫でてやった。

 それでも春巻アヤナは目を覚ますことはない。

「いつか死ぬ。寿命でもなく、僕たちは天災によって死ぬ」

 あるとき、田臥マカロニは気がついてしまった。

 長い歳月を費やした研究で田臥マカロニは地震を未然に防ぐための努力をしてきた。しかし、悲しいことにそれは努力でしかなかった。また、研究を進めるうちに信じられない二つの事実を知ってしまった。

「大地震発生は防げない」そして、「大地震発生の正確な日付」である。

 天才田臥マカロニの研究結果から間違いはなかった。それに気がついたとき、彼は絶望した。自分の人生を否定されたようにも思えた。なんのために生きていたのかわからなくなった。この研究こそが自分の生きる意味でもあり、生きる価値でもあったのに。

 全てを悟り諦めたその日以降、田臥マカロニは自分のためだけに生きることにした。

 まずは春巻アヤナを自分のものにした。

 これからの悲運も知らない平和ボケした女一人を懐柔するなんて、田臥マカロニには簡単なことだった。「研究の手伝いが必要なんだ」と言うだけで国民の誰もが目の色を変えて、自分は重要な人間だと錯覚しながら期待に胸を膨らませて田臥マカロニの手人形となるのは明白だった。

 そして春巻アヤナを自室に連れ込むと、ベッドの上で何度も愛してやった。満足するほど十分に愛してやったあと、田臥マカロニは彼女を少しだけ早く楽にしてあげることにした。これがせめてもの償いだった。


 アパートの外からは酔っ払いたちのふざけた合唱が耳に飛び込んできた。緊張感のない声になんだか無性に腹が立って、田臥マカロニは遺書を書くことにした。


国民の皆様へ

『恨むなら恨んで下さい。研究は失敗に終わりました。しかし、僕は努力をした。君たちは何もしなかった。朝を迎える頃には死んでいます。みなさん、さようなら』

田臥マカロニ

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「戯言な愛、そして夢の中」 ゴジラ @kkk0120

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