地人

 ある男が道を歩いていた。日曜の昼、喧騒から遠い、公園の横。近くには美味しいパン屋もあれば、せまい小洒落こじゃれた小道具屋もある。

 男は、女の家から帰っていた。昨晩一緒に過ごした女。朝、彼女に揺り起こされ、

「今日は仕事があるから、もう行くね。鍵は閉めて、ポストに入れておいて」

 と言われた。

 正午に一人で、二度目の目覚めをして、女に言われた通りにしておいた。鍵を閉めて、それをポストに入れておいた。今日一日予定のない彼は、自分の家へ帰るところだった。

「うわ、」

 と小さく声を漏らす。

 何か柔らかいものを踏んだのだった。思わず足をどける。そしてその正体を見て、男は驚いた。そこに真っ黒な服を着た、青年が仰向けに寝転んでいたのだ。地味ではあるが整った綺麗な顔つきである。青年は薄目を開けた。

 踏まれたことに気付いていないのかもしれない。そう思い、気づかなかったフリをして行き過ぎようとも思ったが、やはり足が止まり、男は寝転ぶ青年の肩を叩いた。

「おい、大丈夫か」

 青年は目を開けたが、無反応だった。

「おい……おい、」

「はい」

「起きたか? 大丈夫か」

「僕ですか? 僕に話しているんですか?」

「お前以外誰がおんねん」

「あの、いいです、僕は全然その……」と青年は、弱ったように言った。「放っておいて、行ってください。いや、ちょっと、あれだな。久しぶりですね」




「……何が?」

 知り合い、ではない。全くの知らない相手だ。

 すると、青年は起き上がった。上体だけ起こして座ったままであるが、青年はそのまま話した。

「歩人ですよね」

「……ホジン? 何それ」

「歩く人、です。ああ、僕は地人なんですよ」

「地って、地面の地?」

「はい」

「ええ、どういうこと」

「あなたは生まれてきた時、どうでしたか? 人の形で生まれて、それから成長するにつれ歩けるようになったんですよね。僕の場合は、地面なんです、最初は。なんだか理由は知らないけど、いつの間にか人の形になっていました。そういうので、地人ということです。いやあ、久しぶりに歩人と話しますよ、八十年ぶり? くらいかな。初めてはね、確か二百八十年前なんですよ。その少し前くらいにね、なんかズドーンみたいな、感じになって、それからフワーみたいなんがきて、それでグガーンってきた瞬間に、なんか変な感じになったんですけど、それで、平三郎って人が初めて僕に気がついたんですよ」

「よく喋るな」

「久しぶりなもので」

「そのう、生まれたってことは、地面にも寿命とかってあるんか?」

「ありますよぅ。僕なんてまだ子どもですけどね」

「何歳?」

「僕ですか?」

「ええ」

「僕の場合、八千年前に生まれたかな。八千歳ですね。……このサッちゃん」と言って青年は隣の地面を指さした。「サッちゃんなんかは二万六千年前で、けっこう一億とか超えますね、歳いってる人だと。僕は全然」

「そんなんあるんや」

「ありますね。でも、最近言われるのは、『最近の地面は大人になるのが早い』ということですかね」

「どういうこと?」

「ええ、ドロドロなんです。子どもって。で、一万年くらいかけて固なるんですけど、もう最近は六千年、七千年くらいでもう固いっていうか。そんな感じで。あとまあ、最近はアスファルトありますから、なんか表面だけ固くなって、大人ぶってる子どももいますけど。そういうのは結局、液状化しますね。」

「そういうのあんねんな……。それで、最初に気づかれたのが?」

「最初に気づかれたのですか、ああ、二百八十年前ですね」

「ええっ! そうなんや。江戸時代やで」

「はあ、そうなんですか。知らないですけどね。平三郎っていいましたね、たしか。それですごく驚かれて、それから僕が自分のことを説明すると、『お代官様〜』なんて叫んで走って行ったんですよ。そしたら何やら偉そうな人が来て、『何ごとじゃ』みたいな。でも、そのお代官様には、どうも僕が見えないらしくって、『平三郎は頭がおかしくなっておる。連れて行け』というと、平三郎はその命令通り連れて行かれました。後から地続きに聞いたところによると、平三郎は地下牢に入れられて、三ヶ月くらいして死んでしまったそうです」

「へえ、なんか壮大やな。え、ほんまに?」

 そう聞くと、青年は立ち上がって答えた。

「嘘やがな」

「……、」

「昨日飲んで、気ィついたらこれや。財布もスマホも定期もあれへんがな。やってもうた、ははは」

「……はは」

「ははは」

 と空虚に笑って、青年は手の甲で軽く男の背中をポンポンと叩くと、そのまま立ち去って行った。


 ひとり残された男は、青年がさった後もそこにいた。

 カラカラカラと風が吹く。男はその場に腰を下ろし、仰向けに寝転んでみた。

 見えるのは、よく晴れた空と、風に流れる丸い雲。水色と白。それだけだった。地面の音がした。そして風が吹いた。

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