ありがとう
*
一呼吸、置いてみた。並んで食卓についている善之さんとお兄ちゃんの後ろに、ぼくは立つ。
その向かいには一清さんと広美さんがいる。ぼくは二人にも目をやって、善之さんとお兄ちゃんに声をかけた。
けさは珍しく全員で食卓を囲んだ。そのにぎやかな朝食もいまは終盤。
善之さんは箸を持つ手を食卓につき、お兄ちゃんは箸の先を口につけたままぼくを振り仰いだ。
「二人に大切な話があるんだ」
ぼくが声を低くして言うと、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、善之さんとお兄ちゃんはゆっくりと目を見合わせた。
「なに?」
「あのね。一清さんと広美さんはもう知ってるんだけど──」
言葉が切れた。
やっぱり、一清さんから話してもらうべきだったかなとちょっと後悔した。
どんな事情があろうと、これは祝福されて当たり前のことで、善之さんもお兄ちゃんも喜んでくれるはずだと思っている。
その一方で、簡単には口にできない複雑さもある。
だけど、ぼくのお母さんのことなんだ。
もう一度深呼吸して、言葉をつないだ。
「お義父さんとお母さんに……赤ちゃんができたんだ」
二人とも、まず目を丸くした。これは当然の反応だ。
一清さんと広美さんにそのことを聞かされたとき、ぼくもそんなふうになった。
予想外だったのはお兄ちゃんの表情。信じられないって感じでもなく、もちろん嬉しそうでもない。
善之さんはすぐに笑顔になってくれたのに。
でも、お兄ちゃんはそれでいいのかもしれない。あのお兄ちゃんが素直に喜んでくれるわけもないし、それはぼくが一番よくわかっている。
本当に嬉しそうな善之さんが言葉をかけてくれる中、お兄ちゃんは無言で台所を出ていった。
その背中へ、まず広美さんが声をかけていたけど、お兄ちゃんは足を止めなかった。
それから三日後の夜。
九時から始まったバラエティー番組が意外と面白く、どのタイミングでお風呂へ入ろうかぼくは迷っていた。
居間の畳の上でもじもじしていたら、どしどしと階段を降りてくる足音がした。
お兄ちゃんだ。
その足音は思いのほか伸びていって玄関で止まる。
お兄さんたちは今夜も遅いというのに、夕方からちゃんと家にいたお兄ちゃんが、ここにきて出かけるみたいだった。
時間も時間だから、行き先だけは聞いておこうと、ぼくは急いで障子を分けた。
「お兄ちゃんっ」
「ちょっとコンビニ行ってくる」
お兄ちゃんが足早に家を出ていく。
玄関の戸がぴしゃりと閉まって、またすぐに開いた。
「言っとくけど、お前のメシに不満があるわけじゃねえからな。コンビニのおでんが食いたくなったから買いに出るだけだ」
「待って。ぼくも行く」
「は?」
「いま上着持ってくるから」
居間のテレビと暖房を消し、自分の部屋でダウンジャケットを着てきたけど、お兄ちゃんはやっぱり玄関にはいなかった。
外へ出ると、小さくなった大きな背中があった。慌てて追いついて、それからコンビニまでは二人して無言で歩いた。
「……で? お前はなに買いに来たわけ?」
コンビニの駐車場に差しかかったところで、お兄ちゃんが足を止めた。
ぼくは目を伏せる。なんとなく一緒に行きたかったというのは、お兄ちゃんに理解してもらえる理由になるのだろうか。
ぼくが黙っていると、お兄ちゃんはため息をついた。
「ま、いいや。つうか、お前はなに食いたい?」
「え? 食う?」
「おでんだろうが」
「べつにぼくは……」
「じゃあ、はんぺんにでもしとくか」
お兄ちゃんはそう勝手に決め、さっさと店内へ入っていった。
混んでいそうもなかったし、ぼくは外で待っていることにした。
コンビニの袋を下げ、やがてお兄ちゃんが戻ってくる。
とくに言葉もなく、ぼくらは駐車場を出た。
ふと空を見上げれば、まんべんなくちりばめられたまたたき。思わずぼくは立ち止まった。
星がきれいだ。
やっぱり冬はよく見える。
はあと白い息を吐いたとき、低くかすれた声がとなりから降ってきた。
「よかったな」
今度、お兄ちゃんを見上げた。
ほのかな笑みを浮かべ、お兄ちゃんはぼくを見下ろしている。
「え?」
「愛子さんのこと」
ぶっきらぼうに言って、お兄ちゃんはなぜかそっぽを向いた。
ぼくはまばたきを繰り返す。
「でも、お兄ちゃんは嫌なんでしょ」
お母さんに赤ちゃんができたことを話したとき、お兄ちゃんはなにも言ってくれなかった。ただ黙って、台所を出ていった。
それは、なにかしらの反抗心を示している。
お兄ちゃんが嬉しくないというなら、ぼくのお母さんのことであっても、それは絶対に喜ばれるべきことであっても、よかったとは思われない。
「あれはほんと悪かった。あそこでいろいろ想像しちゃったっていうか」
「想像?」
「ほら、愛子さんに子どもができたってことはつまり……あの親父が、とかさ」
なにを言いたいのかよくわからない。
ぼくがそう詰め寄ると、困ったというように、お兄ちゃんは咳払いをした。
「とにかくだ。俺だって嬉しいんだよ、本当は」
そして、頭を掻いた。
「お前はさ、たとえば弟と妹、どっちがいいとかあんの?」
「お兄ちゃんは?」
「は? なんで俺に訊くんだよ」
「だって、ぼくの弟か妹は、お兄ちゃんの弟か妹でもあるんだよ」
お兄ちゃんは、いま初めて気づいたみたいに、ああと声をもらした。
それから笑みを深める。
その顔を見て、ぼくは急にほっこりしてきた。
とても寒いはずなのに、いまは不思議とそれを感じない。
「弟はお前がいるから、ここはやっぱ妹か」
「うん。ぼくも女の子がいいと思う」
ぼくが笑顔で返すと、お兄ちゃんの表情が一変した。
ぱっと、ぼくに背を向ける。おでんが冷めるから早く帰ろうと独りごちて、お兄ちゃんは足を早めた。
嬉しいと言ってくれても、その温度差は多少あるのかもしれなかった。
ぼくはそう悟って、ちょっと後ろを歩いた。
正直言うと、ぼくにも戸惑いはある。
去年のいまぐらいのことが思い浮かぶ。
去年の年末はお母さんと二人きりで過ごした。しかし、こうやって思い出してみると、すごくむかしのように感じられる。お父さんを思い出して、ベッドの中で久しぶりに大泣きした夜だ。
それがいまは五人ものお兄さんに囲まれ、毎日が慌ただしく、お父さんのことも振り返れないでいる。
来年には弟か妹もできる。
不思議で不思議で仕方がなかった。
お父さんがいないのは、いつになっても悲しいことだし、ぼくの本当のお父さんは、お父さんしかいない。
けれど、お父さんがいなくなってしまった「いま」に感謝している気持ちも、ぼくの中にはあるんだ。
ブラザーフッド もりひろ @morishimahiroi
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