ありがとう



 一呼吸、置いてみた。並んで食卓についている善之さんとお兄ちゃんの後ろに、ぼくは立つ。

 その向かいには一清さんと広美さんがいる。ぼくは二人にも目をやって、善之さんとお兄ちゃんに声をかけた。

 けさは珍しく全員で食卓を囲んだ。そのにぎやかな朝食もいまは終盤。

 善之さんは箸を持つ手を食卓につき、お兄ちゃんは箸の先を口につけたままぼくを振り仰いだ。


「二人に大切な話があるんだ」


 ぼくが声を低くして言うと、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、善之さんとお兄ちゃんはゆっくりと目を見合わせた。


「なに?」

「あのね。一清さんと広美さんはもう知ってるんだけど──」


 言葉が切れた。

 やっぱり、一清さんから話してもらうべきだったかなとちょっと後悔した。

 どんな事情があろうと、これは祝福されて当たり前のことで、善之さんもお兄ちゃんも喜んでくれるはずだと思っている。

 その一方で、簡単には口にできない複雑さもある。

 だけど、ぼくのお母さんのことなんだ。

 もう一度深呼吸して、言葉をつないだ。


「お義父さんとお母さんに……赤ちゃんができたんだ」


 二人とも、まず目を丸くした。これは当然の反応だ。

 一清さんと広美さんにそのことを聞かされたとき、ぼくもそんなふうになった。

 予想外だったのはお兄ちゃんの表情。信じられないって感じでもなく、もちろん嬉しそうでもない。

 善之さんはすぐに笑顔になってくれたのに。

 でも、お兄ちゃんはそれでいいのかもしれない。あのお兄ちゃんが素直に喜んでくれるわけもないし、それはぼくが一番よくわかっている。

 本当に嬉しそうな善之さんが言葉をかけてくれる中、お兄ちゃんは無言で台所を出ていった。

 その背中へ、まず広美さんが声をかけていたけど、お兄ちゃんは足を止めなかった。





 それから三日後の夜。

 九時から始まったバラエティー番組が意外と面白く、どのタイミングでお風呂へ入ろうかぼくは迷っていた。

 居間の畳の上でもじもじしていたら、どしどしと階段を降りてくる足音がした。

 お兄ちゃんだ。

 その足音は思いのほか伸びていって玄関で止まる。

 お兄さんたちは今夜も遅いというのに、夕方からちゃんと家にいたお兄ちゃんが、ここにきて出かけるみたいだった。

 時間も時間だから、行き先だけは聞いておこうと、ぼくは急いで障子を分けた。


「お兄ちゃんっ」

「ちょっとコンビニ行ってくる」


 お兄ちゃんが足早に家を出ていく。

 玄関の戸がぴしゃりと閉まって、またすぐに開いた。


「言っとくけど、お前のメシに不満があるわけじゃねえからな。コンビニのおでんが食いたくなったから買いに出るだけだ」

「待って。ぼくも行く」

「は?」

「いま上着持ってくるから」


 居間のテレビと暖房を消し、自分の部屋でダウンジャケットを着てきたけど、お兄ちゃんはやっぱり玄関にはいなかった。

 外へ出ると、小さくなった大きな背中があった。慌てて追いついて、それからコンビニまでは二人して無言で歩いた。


「……で? お前はなに買いに来たわけ?」


 コンビニの駐車場に差しかかったところで、お兄ちゃんが足を止めた。

 ぼくは目を伏せる。なんとなく一緒に行きたかったというのは、お兄ちゃんに理解してもらえる理由になるのだろうか。

 ぼくが黙っていると、お兄ちゃんはため息をついた。


「ま、いいや。つうか、お前はなに食いたい?」

「え? 食う?」

「おでんだろうが」

「べつにぼくは……」

「じゃあ、はんぺんにでもしとくか」


 お兄ちゃんはそう勝手に決め、さっさと店内へ入っていった。

 混んでいそうもなかったし、ぼくは外で待っていることにした。

 コンビニの袋を下げ、やがてお兄ちゃんが戻ってくる。

 とくに言葉もなく、ぼくらは駐車場を出た。

 ふと空を見上げれば、まんべんなくちりばめられたまたたき。思わずぼくは立ち止まった。

 星がきれいだ。

 やっぱり冬はよく見える。

 はあと白い息を吐いたとき、低くかすれた声がとなりから降ってきた。


「よかったな」


 今度、お兄ちゃんを見上げた。

 ほのかな笑みを浮かべ、お兄ちゃんはぼくを見下ろしている。


「え?」

「愛子さんのこと」


 ぶっきらぼうに言って、お兄ちゃんはなぜかそっぽを向いた。

 ぼくはまばたきを繰り返す。


「でも、お兄ちゃんは嫌なんでしょ」


 お母さんに赤ちゃんができたことを話したとき、お兄ちゃんはなにも言ってくれなかった。ただ黙って、台所を出ていった。

 それは、なにかしらの反抗心を示している。

 お兄ちゃんが嬉しくないというなら、ぼくのお母さんのことであっても、それは絶対に喜ばれるべきことであっても、よかったとは思われない。


「あれはほんと悪かった。あそこでいろいろ想像しちゃったっていうか」

「想像?」

「ほら、愛子さんに子どもができたってことはつまり……あの親父が、とかさ」


 なにを言いたいのかよくわからない。

 ぼくがそう詰め寄ると、困ったというように、お兄ちゃんは咳払いをした。


「とにかくだ。俺だって嬉しいんだよ、本当は」


 そして、頭を掻いた。


「お前はさ、たとえば弟と妹、どっちがいいとかあんの?」

「お兄ちゃんは?」

「は? なんで俺に訊くんだよ」

「だって、ぼくの弟か妹は、お兄ちゃんの弟か妹でもあるんだよ」


 お兄ちゃんは、いま初めて気づいたみたいに、ああと声をもらした。

 それから笑みを深める。

 その顔を見て、ぼくは急にほっこりしてきた。

 とても寒いはずなのに、いまは不思議とそれを感じない。


「弟はお前がいるから、ここはやっぱ妹か」

「うん。ぼくも女の子がいいと思う」


 ぼくが笑顔で返すと、お兄ちゃんの表情が一変した。

 ぱっと、ぼくに背を向ける。おでんが冷めるから早く帰ろうと独りごちて、お兄ちゃんは足を早めた。

 嬉しいと言ってくれても、その温度差は多少あるのかもしれなかった。

 ぼくはそう悟って、ちょっと後ろを歩いた。

 正直言うと、ぼくにも戸惑いはある。

 去年のいまぐらいのことが思い浮かぶ。

 去年の年末はお母さんと二人きりで過ごした。しかし、こうやって思い出してみると、すごくむかしのように感じられる。お父さんを思い出して、ベッドの中で久しぶりに大泣きした夜だ。

 それがいまは五人ものお兄さんに囲まれ、毎日が慌ただしく、お父さんのことも振り返れないでいる。

 来年には弟か妹もできる。

 不思議で不思議で仕方がなかった。

 お父さんがいないのは、いつになっても悲しいことだし、ぼくの本当のお父さんは、お父さんしかいない。

 けれど、お父さんがいなくなってしまった「いま」に感謝している気持ちも、ぼくの中にはあるんだ。




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ブラザーフッド もりひろ @morishimahiroi

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