「もう! ……じゃあ、善之さんはゆかりさんを助けようとして殴られたってことだよね」

「まあ、そうなるな」

「だったら男の株は上がったよね」


 それなのにふられてしまった。

 もちろん善之さんは、「男の株」なんて計算はなく止めに入ったんだと思う。

「殴られ損だな」とお兄ちゃんが呟く。

 よくよく考えてみると、ゆうべの善之さんはちょっと変だった。女の人にふられたからって物にまで当たるのは善之さんらしくない。

 自分の思い通りにならず八つ当たりするだれかさんみたいだ。

 のんきにお鍋を覗いているお兄ちゃんへぼくは目をやった。


「てか、ゆかりさんは今週いっぱいで辞めるらしいぜ」


 一瞬、言葉が出てこなかった。


「……あのお店を?」

「しかねえだろ」

「なんで。ゆかりさんはぜんぜん悪くないじゃん」

「ママが言うには、善之はホステスたちに可愛がられてて、今度のことでゆかりさんに嫉妬してる人もいるとか」

「居づらくなったんだ……」

「新人だしな」

「善之さんはそのこと知ってるの?」


 お兄ちゃんは首をひねった。


「たぶん。理由はどうかわからねえけど、辞めることは聞いたんじゃねえかな。それを伝えに、ゆかりさんはゆうべ来たんだと俺は思う」

「……」

「結局はごめんなさいってことだけど、善之は人がいいから自分のことはさておき、店のことは考え直してもらおうとしたんじゃねえかな。結構人気あったらしいし……。ママも残念がってた」

「辞める理由、絶対に言わなかったんだよ。ゆかりさん。だから善之さんはあんなに怒ってたんだ」


 そのあとぼくらは思い思い口を閉じていた。

 二人をどうにかしてあげたいと思う。でも、どうすればいい方向へ持っていってあげられるのかがわからない。

 顔を上げるとお兄ちゃんと目が合った。

 なにか言いたげに口を開けたけど視線をそらす。お兄ちゃんはそのまま台所を出ていこうとした。

 ぼくははっと気づいて、慌ててお兄ちゃんの腕を掴んだ。危うく肝心なことを聞きそびれるところだった。

 なにかを感じ取ったらしいお兄ちゃんが舌打ちをする。


「んだよ」

「なんだよ。じゃないよ。ぼくが訊かないなら、うやむやにしておこうと思ってたでしょ」

「なにが」

「小寺さんのこと」


 さもめんどくさいと言わんばかりにお兄ちゃんはため息をついた。

 今度ばかりはそれがたまらなかった。ぼくは大声で反撃を試みる。


「お兄ちゃんていつもそうだよね。ほんと意地悪性悪大王!」

「あ? なんだ、それ」

「意地悪の中の意地悪で、性悪だから、意地悪性悪大王」

「人夢クンよ。人がせっかく親切でゆかりさんのことを教えてやったのに、その言いぐさはねーんじゃねえかな」


 お兄ちゃんがぼくのあごを鷲掴みにした。にやにや笑いながら、この口を黙らせようと指に力を入れる。

 たった腕一本で屈せられていることにまた腹が立って、ぼくは闇雲に暴れているうちにお兄ちゃんのすねを蹴ってしまった。

 お兄ちゃんは、遊びなのか本気なのかわからない顔で、ぼくを台所の床へ倒す。


「お兄ちゃん、痛いよ!」

「その新手の早口言葉みたいなのをいますぐ撤回しねえと、もうなにも教えてやらねえぞ」


 やっぱり本気で怒っているわけじゃないのにこの仕打ち。お兄ちゃんはずっと笑っていて、だけど急に手を離した。

 ぼくは起き上がるよりもまずきっとお兄ちゃんを睨んだ。なにもかも敵う相手ではないんだけど、それぐらいはしておかないと気がすまない。


「ぼく、絶対に撤回なんてしないからね」


 起き上がりながら言い足す。


「あ、そう」


 お兄ちゃんはぼくのとなりであぐらをかき、横目でこっちを見た。

 また、くっと笑う。


「変なやつ」

「お兄ちゃんには言われたくないし」


 お兄ちゃんが顔だけをこっちに向ける。その目はもう笑っていない。

 次はなにをされるのか、いやな想像だけが膨らむ。


「いいか、人夢。これから言うことはだれにも言うなよ」

「う、うん」

「とくに、善之には絶対だ」


 さらに表情を強張らせ、お兄ちゃんは顔を近づけた。


「小寺さんは、ゆかりさんなんだよ」

「え?」

「ゆかりさんが、じつは小寺さんなんだ」


 ぼくは目をしばたたいた。

 前置きがわかりやすかったわりに、いまいちぴんとこない。


「言い方を変えただけじゃん。意味はぜんぜんわからないよ」

「だからよ。もうしようがねえなあ。いいか。ゆかりさんの本名は小寺瞬(しゅん)ていうんだ。これでニブチンのお前も俺の言ってる意味がわかるだろ。小寺さんは善之の中学の先輩で、同じ野球部だった人。ゆかりさんは、その小寺さんのお姉さんでも妹でもなく、小寺さん本人なんだよ」


 ぼくは今度こそ言葉を失って、じっとお兄ちゃんを見つめた。

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