三
「その人、なんていう人なの?」
「え? ああ、小寺(こでら)さん?」
「小寺さん……」
当たり前だけど、ぼくには聞き覚えのない名前だ。
その小寺さんは善之さんの中学の先輩で、しかも同じ野球部でバッテリーを組んでいたと勇気くんは教えてくれた。小寺さんがピッチャーで善之さんがキャッチャーだとも。
「背がでかくないから球威はそれほどでもないんだけど、とにかく球種が豊富で、コントロールが抜群だった。小寺さんはずっとおれの目標だったんだ」
「そうなんだ」
「でも……小寺さんももう野球してないんだよな」
勇気くんはにわかに声を小さくして目を伏せた。
なにかあるのかと思い訊いてみたら、小寺さんは行方知れずなんだと返ってきた。
なんでも高校を中退して、この町からも出ていってしまったらしい。
お兄ちゃんはゆうべ、やっぱりゆかりさんをどこかで見てると言って、善之さんの部屋を調べ始めた。それから、小寺さんのことを訊くために勇気くんへ電話した。
ゆかりさんと小寺さんはなにかしらの関係があるんだと、お兄ちゃんは気づいたんだ。
兄弟のことも訊いたらしいから、もしかしたらゆかりさんは小寺さんのお姉さんなのかもしれない。
「小寺さんてこの辺の人だったのかな。あ、善之さんと中学が一緒なら近くの人だよね」
「むかしはね。あの公園の向こうのほうじゃなかったかな。いまは引っ越ししたからないと思うけど」
「それで行方知れずなんだ」
「いや。小寺さんの家自体は、小寺さんがここを出ていってから引っ越したんだ」
お姉さんの話も訊こうと思ったのに、チャイムが鳴ってしまった。
次は移動教室だ。慌てて教室へ向かうと道具一式を持って、ぼくらは競うように廊下を走った。
ゆかりさんは小寺さんのお姉さんなんだ。
ぼくはそう確信していたから、そのあとも勇気くんに尋ねなかった。
小寺さんが善之さんの先輩なら、お姉さんであるゆかりさんとお兄ちゃんが会っていたとしても不思議じゃない。だから、どこかで見たことがあったんだ。
しかし、家で夕ご飯を作っているときに気づいた。ゆかりさんが小寺さんのお姉さんだと、年齢が合わない。ゆかりさんは善之さんのいっこ上。小寺さんも一年先輩だ。
そのことに気づいてから、ぼくはなにがなんだかわからなくなって、夕ご飯作りにも身が入らなくなってしまった。お味噌汁にだしを入れ忘れて、味見のときに吹きそうになった。
七時を回ったころ、お兄ちゃんの帰ってくる音がした。玄関まで出迎えにいって、すぐさま矢継ぎ早に訊いた。
「お兄ちゃん、きのう勇気くんに電話したんだって? 小寺さんていう人のことを訊くためでしょ。ねえ、ゆかりさんてやっぱり小寺さんのお姉さんなの」
お兄ちゃんは靴を脱ぐと上に視線をやった。
「善之は?」
「いないよ。お友だちと飲みにでも行ったんじゃないかな」
「兄貴たちも?」
「うん。まだ帰ってきてない。それより──」
するとお兄ちゃんは、ぼくの腕をぐいと引っ張って、台所へ押し入った。いつものように冷蔵庫からポカリを取ると、「いま店に行ってきた」と軽い感じで言う。ポカリをコップへ注いで飲み干した。
お兄ちゃんの言ったお店が、お義父さんのお店だとぼくはてっきり思った。
「善之のバイト先の店だよ」
「ええっ」
「ママに会って、いろいろ話を聞いてきた」
ぼくは目をむいた。思わず大きな声も出る。
お店へ行っただけならまだしも、ママさんにまで会ったとなると話はべつだ。
そのことが善之さんや一清さんに知られたらどうなるか。鈍感のぼくでもわかりすぎる結果だ。
「そんな勝手なことしてばれたら大目玉だよ。余計なことするなってぼくには言ったくせに」
「事情が変わったんだよ。それに、お前だって気になってただろ? 善之が店で起こしたトラブルの詳しいハナシ」
「わかったの?」
「ああ」
お兄ちゃんがずいと前へ出た。
「善之を殴った客は、ゆかりさんを無理やり、店の外にまで付き合わせようとしたらしい。見送りに出たゆかりさんを強引にタクシーに乗せようとしたんだな。あいつはそこを止めに入って、もみ合っているうちに──」
ぼくのあごにお兄ちゃんの拳が迫る。
フリだろうけれど、大きい拳がいきなり現れたら、どんなやつだってびっくりすると思う。
変な声を上げて尻餅をついたぼくをお兄ちゃんが笑う。
ぼくはすぐに立ち上がり、まだパンチな手を掴んで、お兄ちゃんの体ごと押しやった。
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