五
「とにかく俺は腹が減った。メシ食うぞ」
お兄ちゃんが台所へ消えてからも、ぼくは廊下で一人うんうん考えていた。
もしかしたらあのホステスさんは、善之さんに用があって来たのかもしれない。でも、同じところで働いているなら、わざわざうちにまで来なくてもいい気がする。
ぼくは首を曲げた。
それと同時に、台所からぼくを呼ぶお兄ちゃんの声がした。
次の日、思いがけず、あのホステスさんのことを善之さんに訊く機会があった。
学校から帰ると、きょうも善之さんがご飯を作っていて、ぼくはそれとなく話題に出してみたのだ。
あのホステスさんは「ゆかり」さんというらしい。それが本名かどうか、善之さんにもわからないみたいだけど、お店ではそう呼ばれているらしい。
善之さんより一つ年上で、二ヶ月ほど前に入った新人ホステスさんだそうだ。
そのゆかりさんがうちへ来ていたことを善之さんに言うべきか、ぼくは迷った。でも結局は、話の流れで喋ってしまった。
それを聞いた善之さんは菜箸を床へ落とすほど驚いていた。口から漏れ出る嬉しさを隠すように、髭を蓄え始めた顎をやたら撫でていた。
その態度にぼくはぴんときた。
少なくとも、善之さんはゆかりさんに好意を持っている。
ゆかりさんも、お店ではできない大事な話を善之さんにしたかったから、うちにまで来たんだ。
ただ、あの表情を思い浮かべると、あまりいい話じゃないことは想像できる。
「ああいうところは職場恋愛だめだろ。フツー」
その夜、ぼくは廊下でお風呂上がりのお兄ちゃんを捕まえ、居間へ連れていってからゆかりさんの話をした。
ぼくがぴんときたことも。
「だめなの?」
「ホステスがいてこそのキャバクラだ。いわば大事な商品みたいなもんで、それをバイトごときが手ぇつけたらまずいだろ。だから、そのゆかりさんて人はお前の言う悲しそうな顔をして、うちを見てたんだろうけど」
「……まるでロミオとジュリエットだね」
ぼくは、ふむふむと頷いた。
お兄ちゃんを見上げれば、怖いくらいの無表情でいる。
「お前……また余計なこと考えてんだろ」
「え?」
「いいか。たとえ二人が両想いだったとしても、それは善之たちの問題なんだから、俺らが口を挟むことじゃねえ」
変に真面目なことを言うお兄ちゃんを訝るようにぼくは口を尖らせてみせた。
「わかってるよ」
だけど、事態は口を挟まずにいられない方向へと転がっていくことになった。
三日後の真夜中過ぎだった。
ぼくはふと目が覚め、妙にざわざわしているドアの向こうを覗いた。
居間が煌々と明るい。ぼくは思わず目をつむった。
障子の向こうから一清さんの低い声がする。なにを言っているかは聞き取れないけど、重苦しい空気はひしひしと感じる。
お兄ちゃんがまたなにかやらかしたんだと思って、ぼくは忍び足で台所へ回った。
それにしてもこんな時間だ。一体、なにがあったんだろう。
ものすごく不安で、台所の戸をこわごわ開けた。
ところがお兄ちゃんは居間じゃなく、広美さんと食卓にいた。
だとすると、一清さんにお説教されているのは善之さんということになる。
ぼくはますますなにがなんだかわからなくて、台所の入り口で立ち尽くしていた。
椅子から立ち上がったお兄ちゃんがぼくを玄関まで促す。電気を点け、その手を頭へ持っていった。がしかしと掻き乱す。
なにから話そうか、お兄ちゃんは迷っているようだった。
「善之さん、どうかしたの?」
「店でトラブったらしい」
「店って……バイト先のあのお店?」
「ああ。客に殴られたんだと。……にしても、反撃しねえとかありえねえ」
ぼくは愕然として、殴られたという言葉を繰り返し口の中で呟いた。
「俺が見た限り大したことなさそうだし、そんなに心配することもねえよ」
「でも殴られたんでしょ?」
「一発な」
「一発は一発だよ!」
もちろんぼくは詳しいいきさつを訊こうと思った。
しかし、お兄ちゃんもこまかいところまでは知らないらしく、眠そうに目をしばたたいてるだけだった。
「とりあえず、善之のほうにも非があるってことで警察沙汰にはしないって」
「警察……。ていうか、殴ってない善之さんになんで非があるの」
ついお兄ちゃんを睨むようにして見上げた。
ところがお兄ちゃんはのんきにあくびなんかしている。
「俺が知るかよ。そんで、広美が言うには、あそこでバイトすんのを兄貴はもともと反対してたから、いろいろといま諭してるところらしい」
「お店……辞めちゃうの?」
ぼくは訊きながら、なぜかゆかりさんを思い出していた。
善之さんがお店を辞めたら二人はどうなってしまうんだろう。ホステスとバイトという立場じゃなくなるのだから、それはそれでいいほうにいくのかもしれない。
ああいうお店は色んな人が来るって聞く。思いも寄らないキケンに巻き込まれる可能性だってあるんだ。
「善之、学費はなるべく自分で出すって言ってたから、なにがなんでも続けんだろ。かなり割に合うバイトみたいだし」
「……」
「とにかく。あいつが辞めるにしても辞めないにしても、俺らには関係のねえことだから」
お兄ちゃんは釘を刺すように人差し指を口に当てた。大きく伸びをして、玄関から去る。
眠い上にいまはそう言うしかないとしても、あまりに他人事みたいにするお兄ちゃんで、ぼくはがっかりした。
とはいえ、やっぱり子どもは安易に意見しちゃいけないセカイなんだ。それがわかっていたから、お兄ちゃんもああ言うしかなかったんだと、あとになって気づいた。
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