「それ、善之さんの……」

「きょうのバイトはこれ着るのに、忘れたんだと」

「だから電話してきたんだ。でもそのジャケット、夕方クリーニングから戻ってきたばかりなんだよ。それでも忘れちゃったの?」

「忘れちゃったもんは忘れちゃったんだから仕方ねえだろ」


 お兄ちゃんは吐き捨てるように言いながら、そのジャケットをぼくのセーターの上に羽織らせた。


「え?」

「だからいますぐ届けることになった。つべこべ言わずにつき合え」


 お兄ちゃんはぼくの手を取って、足早に家を出る。

 ヘルメットを被せられたら、もう乗るしかない。ぼくは渋々、ぶかぶかのジャケットに袖を通した。

 お兄ちゃんがオートバイに跨がり、エンジンをかける。その背中には迷うことなくひっついた。

 初冬の夜風を切って走るバイクは思いのほか寒かった。お兄ちゃんのライダースジャケットにもっとひっついた。

 しばらく走って、ようやく着いたところは薄暗い路地。たぶん、善之さんのバイト先であるお店の裏側だと思う。ゴミ箱やお酒の空きビンが積まれてあった。ちょっと引っ込んだところにはドアも見える。

 善之さんが待っているものと思っていたけど、人影は見当たらない。

 ぼくはヘルメットを取り、お兄ちゃんを見上げた。お兄ちゃんもヘルメットを取って、いいから行けと奥を指さす。

 そのとき、ドアが開いた。

 寒そうに肩をすくめながら、ワイシャツにネクタイだけの善之さんが出てきた。ジャケットと同じ色のスラックスを穿いている。

 ぼくはすぐさま駆け寄った。


「悪ぃな。人夢まで来てくれたのか」

「うん。このほうがシワにならないからって。お兄ちゃんが」

「そうか。ありがとな。すげえ助かった」


 善之さんはジャケットを羽織ると、ぼくの後ろにも目をやって、きびすを返そうとした。

 そこへドアの開く音がした。ばっちりメイクの美人さんが顔を覗かせている。白いドレスを着たホステスさんだ。ゆったりとした口調で、善之さんを呼ぶ。


「よっしー。マネージャーが呼んでるよ」


 善之さんは短く返事をして、そのホステスさんと一緒にドアの向こうへと消えた。


「よっしー。だって」

「あ?」

「善之さん。ホステスさんにそう呼ばれてるみたい」


 オートバイに跨がったままのお兄ちゃんの元へ戻って、ぼくはくすっと笑った。

 なんかかわいい、とも思った。

 しかし、その笑いもすぐに凍りついた。上着がなくなったから、めちゃくちゃ寒い。

 するとお兄ちゃんが、ライダースジャケットを脱いで、ぼくにかけてくれた。

 帰りはぜんぜん信号に引っかからなかった。

 家の前で一旦お兄ちゃんと別れ、玄関の戸を開けたところでぼくはあることに気づいた。

 あとから入って来たのに廊下へは先に上がったお兄ちゃんの腕を思わず掴んだ。


「なんだ。いきなり」

「お兄ちゃん。さっきのホステスさん見たよね」

「ああ、まあ。ちらっとだけな。そういえば、なかなかイケてたな」

「あの人、このあいだの人じゃないかな。いや、絶対そうだよ」

「……このあいだの人?」


 お兄ちゃんは顔をしかめると目を上げた。

 ぼくも靴を脱いで、お兄ちゃんの前へと出る。


「お兄ちゃんの学校の学園祭のとき。帰りに、一緒に電車に乗ったでしょ」

「……ああ、あの人か。つか、ぜんぜん違うだろ」

「たしかにあのときよりお化粧をしっかりしてて、ちょっと雰囲気が違うかもだけど、あの人だよ」

「いや、ちげぇって。見た目がぜんぜん違う」


 ぼくは絶対の自信があるのに、お兄ちゃんは頭から違うと決めつけていて取り合ってくれない。

 たとえばちゃんとお化粧をしているとか。完璧にキレイな人にしかお兄ちゃんの目は向かないんだと、ぼくはこのとき思った。


「たとえ、お前の言うその人と、さっきのホステスが同じでも、べつにどうってことねえだろ。やっぱ俺の知らねえ人だったってだけで」

「あの人ね、前にうちに来てたんだよ。とっても悲しそうな顔で、うちを見上げてたんだ。きっとなんかあるって」

「なんかってなんだ」


 ぼくは豪語しておきながら具体的なことはなに一つ考えていなかったから、逆に訊かれて首をひねった。

 お兄ちゃんがやれやれとため息をつく。

 ぼくは、善之さんからの言葉もあって、あの人をお兄ちゃんの元カノだと思っていた。だから、それ関係で話があってうちに来たんだと解釈していた。

 けれど、電車の中で顔を合わせたとき、お兄ちゃんは知らない人だと言った。

 女子大生でもなかった。善之さんのバイト先のホステスさんだったんだ。

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