三
「そういえば次郎さん。この前はお菓子をありがとう」
「お菓子? ……ああ。切り落としのアソートね」
「それもそうだけど、ぼくが風邪を引いたときにくれたクッキーやマドレーヌ」
「風邪──」
と、次郎さんは眉をひそめた。首を横に振る。
「それは僕じゃないよ。人夢くんが風邪を引いていたことさえ、いま初めて聞いたんだ」
「え?」
それはつまりどういうことか。ぼくはなにがなんだかわからなくて、しばし固まった。
篠原、と言いながら先生が歩み寄る。
「──だってお兄ちゃんが。次郎さんがくれたって、言ってたんだ。あの日、お店へ寄ったら次郎さんがぼくの風邪のことを知っていて……」
「ああ、あれか。たしかに、豪は一度店のほうに顔を出したことがあったな。……なるほど。あれは人夢くんに買っていってあげたのか」
……あのお菓子は、お兄ちゃんが買ってくれてきたものだったんだ。
それを知って、ぼくは嬉しいというよりも、騙されたという思いのほうが強かった。
ヒトをウソつき呼ばわりしたりして。やっぱりお兄ちゃんはでたらめばっかり。それどころか、ぼくの口で遊んでゲラゲラ笑って、ヒトを小バカにする。
むかむかな気持ちいっぱいで湯船に浸かったぼくだけど、そのうちお兄ちゃんの優しい部分も思い出してきて、徐々に怒りは薄れていった。お風呂のリラックス効果もあったのかもしれない。
ぼくはパジャマで脱衣場を出ると、持参したタオルで髪を拭きながらリビングへ戻った。
キッチンも食卓もきれいに片づいていて、もうひっそりとしている。リビングのとなりの和室にはすでに布団が敷いてあった。
暖房も効いていてあったかい。
ぼくは早速布団へもぐり、持ってきた小説を読み始めた。けど、いつの間にか眠ってしまい、次に気がついたときには暖房も明かりも消えていた。
また眠気がくるまでのあいだ、次郎さんと先生のことを思い浮かべた。
本当に仲良しさんだと、ぼくは思う。
明かりは点けずに布団から抜け出て、常夜灯のあるリビングへ行く。ここから部屋の間取りを想像する。
残された部屋は、やっぱり一室しか見当たらない。玄関脇のドアの部屋だ。
ぼくがお世話になるのがイレギュラーだったとはいえ、その部屋で一緒に寝れるくらい、次郎さんと先生は仲良しさんということだ。
ぼくは布団へ戻り、今度は勇気くんを思いながら、目を閉じた。
翌朝、ご飯を食べたあと、寛ぐ間もなく次郎さんはお店へ出かけていった。
きょうはぼくも予定があったから、早々に身仕度をすませる。
夕方まで家にはだれもいない。勇気くんを呼んで、お昼をご馳走する約束になっていた。
帰り際、和室を占領してしまったことを謝った。普段は次郎さんか先生が寝室にしていると思ったからだ。
先生はちょっと間を置いて、大丈夫だと笑う。またいつでも来い、と言ってもくれた。
外はきのうより寒かった。またマフラーを巻いて、晩秋の風の中、ぼくは自転車を走らせた。
それから二週間後のことだった。
年末が近いのもあってか、一清さんも広美さんも、いつにも増して仕事が忙しい。
それをいいことに、お兄ちゃんは遊び歩いているみたいだ。最近、やたらと帰りが遅い。
プールやジムで熱心に汗をかいていると思いたいけど、あのお兄ちゃんのことだ、本当のところはわからない。
けど、一清さんが怒っている感じがないから、ちゃんとプールを頑張っているのかもしれない。
善之さんが夜のバイトへ出かけてすぐ、きょうは電話が鳴った。つい身構えてしまったぼくは、いろいろと巡らせながら受話器を取った。
「もしもし? 篠原です」
「ああ、俺だけど。だれか帰ってきた?」
善之さんだった。いま出かけたばかりでどうしたのか。どこからかけてるのか。ぼくは、左右に首を傾げた。
「まだだれも帰ってきてないよ」
「マジか」
「どうしたの。バイトは?」
「そのことなんだけどさ──」
そこへ玄関から大きな物音が飛んできた。どさっとカバンを無造作に投げる音だ。
お兄ちゃんだとぼくは気づいて、それを善之さんに言ったら、代わってと急かされた。
お兄ちゃんが台所へ顔を出してきた。居間のぼくを見つけ、鴨居をくぐる。
「どうした」
「善之さんから。なんか急いでるみたい」
ぼくが受話器を差し出すと、お兄ちゃんは眉をひそめながらも素直に受け取った。
その次の瞬間、大きな声を天井に突き刺した。
「ああ? おま、なんでだよ」
通話口の向こうから、ちょっとこもった善之さんの声が聞こえる。なにを言っているかはわからないけど、とにかく早口で喋っている。
お兄ちゃんは電話を切ったあと、二階へ駆け上がり、一着のジャケットを手にして居間へ戻ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます