「そういえば次郎さん。この前はお菓子をありがとう」

「お菓子? ……ああ。切り落としのアソートね」

「それもそうだけど、ぼくが風邪を引いたときにくれたクッキーやマドレーヌ」

「風邪──」


 と、次郎さんは眉をひそめた。首を横に振る。


「それは僕じゃないよ。人夢くんが風邪を引いていたことさえ、いま初めて聞いたんだ」

「え?」


 それはつまりどういうことか。ぼくはなにがなんだかわからなくて、しばし固まった。

 篠原、と言いながら先生が歩み寄る。


「──だってお兄ちゃんが。次郎さんがくれたって、言ってたんだ。あの日、お店へ寄ったら次郎さんがぼくの風邪のことを知っていて……」

「ああ、あれか。たしかに、豪は一度店のほうに顔を出したことがあったな。……なるほど。あれは人夢くんに買っていってあげたのか」


 ……あのお菓子は、お兄ちゃんが買ってくれてきたものだったんだ。

 それを知って、ぼくは嬉しいというよりも、騙されたという思いのほうが強かった。

 ヒトをウソつき呼ばわりしたりして。やっぱりお兄ちゃんはでたらめばっかり。それどころか、ぼくの口で遊んでゲラゲラ笑って、ヒトを小バカにする。

 むかむかな気持ちいっぱいで湯船に浸かったぼくだけど、そのうちお兄ちゃんの優しい部分も思い出してきて、徐々に怒りは薄れていった。お風呂のリラックス効果もあったのかもしれない。

 ぼくはパジャマで脱衣場を出ると、持参したタオルで髪を拭きながらリビングへ戻った。

 キッチンも食卓もきれいに片づいていて、もうひっそりとしている。リビングのとなりの和室にはすでに布団が敷いてあった。

 暖房も効いていてあったかい。

 ぼくは早速布団へもぐり、持ってきた小説を読み始めた。けど、いつの間にか眠ってしまい、次に気がついたときには暖房も明かりも消えていた。

 また眠気がくるまでのあいだ、次郎さんと先生のことを思い浮かべた。

 本当に仲良しさんだと、ぼくは思う。

 明かりは点けずに布団から抜け出て、常夜灯のあるリビングへ行く。ここから部屋の間取りを想像する。

 残された部屋は、やっぱり一室しか見当たらない。玄関脇のドアの部屋だ。

 ぼくがお世話になるのがイレギュラーだったとはいえ、その部屋で一緒に寝れるくらい、次郎さんと先生は仲良しさんということだ。

 ぼくは布団へ戻り、今度は勇気くんを思いながら、目を閉じた。


 翌朝、ご飯を食べたあと、寛ぐ間もなく次郎さんはお店へ出かけていった。

 きょうはぼくも予定があったから、早々に身仕度をすませる。

 夕方まで家にはだれもいない。勇気くんを呼んで、お昼をご馳走する約束になっていた。

 帰り際、和室を占領してしまったことを謝った。普段は次郎さんか先生が寝室にしていると思ったからだ。

 先生はちょっと間を置いて、大丈夫だと笑う。またいつでも来い、と言ってもくれた。

 外はきのうより寒かった。またマフラーを巻いて、晩秋の風の中、ぼくは自転車を走らせた。




 それから二週間後のことだった。

 年末が近いのもあってか、一清さんも広美さんも、いつにも増して仕事が忙しい。

 それをいいことに、お兄ちゃんは遊び歩いているみたいだ。最近、やたらと帰りが遅い。

 プールやジムで熱心に汗をかいていると思いたいけど、あのお兄ちゃんのことだ、本当のところはわからない。

 けど、一清さんが怒っている感じがないから、ちゃんとプールを頑張っているのかもしれない。

 善之さんが夜のバイトへ出かけてすぐ、きょうは電話が鳴った。つい身構えてしまったぼくは、いろいろと巡らせながら受話器を取った。


「もしもし? 篠原です」

「ああ、俺だけど。だれか帰ってきた?」


 善之さんだった。いま出かけたばかりでどうしたのか。どこからかけてるのか。ぼくは、左右に首を傾げた。


「まだだれも帰ってきてないよ」

「マジか」

「どうしたの。バイトは?」

「そのことなんだけどさ──」


 そこへ玄関から大きな物音が飛んできた。どさっとカバンを無造作に投げる音だ。

 お兄ちゃんだとぼくは気づいて、それを善之さんに言ったら、代わってと急かされた。

 お兄ちゃんが台所へ顔を出してきた。居間のぼくを見つけ、鴨居をくぐる。


「どうした」

「善之さんから。なんか急いでるみたい」


 ぼくが受話器を差し出すと、お兄ちゃんは眉をひそめながらも素直に受け取った。

 その次の瞬間、大きな声を天井に突き刺した。


「ああ? おま、なんでだよ」


 通話口の向こうから、ちょっとこもった善之さんの声が聞こえる。なにを言っているかはわからないけど、とにかく早口で喋っている。

 お兄ちゃんは電話を切ったあと、二階へ駆け上がり、一着のジャケットを手にして居間へ戻ってきた。

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