ぼくはそれから、伊藤さんと、メイドの格好をした瀬尾さんに中庭で会ったことを話した。

 お兄ちゃんはとくに驚いたふうでもなかったから、伊藤さんか瀬尾さんに、そのことを聞いていたのかもしれない。


「それにしてもハチコウっていいところだね。ああいうところに通えたら、勉強も楽しくなりそう」

「勉強は、どんなところでしようと勉強だろ」

「まあ、そうだけど……」

「したらお前、あそこ狙えばいいじゃねえか。再来年の受験」

「うーん。それはムリだよ」


 ぼくが言うと、ずっと前のめりだったお兄ちゃんが後ろの窓に頭をつけた。ふんぞり返る。


「あ? なにがムリ?」

「ぼくの成績、知ってるくせに」

「やってみもしねえで、はなから無理って決めてたら、なんにもできねえだろ」


 ぼくはなにも返せなかった。

 お兄ちゃんが、ふ、と鼻で笑う。


「……ていうのは、まあ、小林さんの男前な名言なんだけど」

「小林さん……て、小林先生?」

「そう。三年のときの担任だったからさ、小林さん。それこそ、はなから無理と思って、俺はハチコウ狙ってなかったんだよな。したら、大学へ行く気なら少しでも上を見ろって」

「大学──」


 高校受験のときに、お兄ちゃんがすでに大学を見据えていたことに、なんとも言えない焦りを、ぼくはまた感じた。

 もう受験する高校が決まっていると健ちゃんに言われたときのような。ぼくには目標がなにもないとわかったあのときのような──。


「お兄ちゃんはすごいね。……将来の夢も決まってるみたいだし」

「は?」

「オリンピックに行くんでしょ? 健ちゃんから聞いたよ」

「おま。オリンピックは近所のスーパーじゃねえんだぞ。そんな軽々しく言うなよ」


 お兄ちゃんは大笑いしながら、ぼくの言葉を一蹴した。


「だって健ちゃんが……」

「オリンピックなんて行けるわけねえだろ。健の妄想だ」

「……」

「ここだけのハナシ、俺にはべつな夢がある」


 もしかして、お義父さんのお店を継ぐことだろうか。

 でも、それだと次郎さんみたいに、大学じゃなくて専門学校へ進むのが筋だ。もちろん、大学を出てからでも遅くないことではある。

 お兄ちゃんの言うその「夢」が、ぼくはものすごく気になった。どうしたら、そういうものを見出せるのかも。いまのまんまでも、まだ大丈夫と思ってしまうのは、甘いことかもしれないから。

 思わずため息をもらしたとき、なにかの匂いが鼻をついてきた。お兄ちゃんとくっついているほうとは反対の肩に重みがかかる。

 とっさに目をやれば、となりのおじさんの頭があった。


「ちょっ……」


 ぼくはおじさんのじゃなく、お兄ちゃんの服をむんずと掴んだ。


「おい。おっさん!」


 ぼくの異変にすぐに気づいてくれたお兄ちゃんが、おじさんを乱暴に押しやる。

 おじさんは眠そうな目を動かしながら、お酒くさい口を開いた。


「おお、ごめんね。お嬢ちゃん」


 この状況よりも、「お嬢ちゃん」と言われたことにぼくはむかっときて、なにか言い返そうと思った。しかし、お兄ちゃんに腕を掴まれ、それはできなかった。

 引っ張られるままとなりの車両へ移る。けれども、こっちは座るところがなく、二人してドアのそばに佇んだ。

 お兄ちゃんはぶつぶつと繰り返し、その横のぼくは静かに腹を立てていた。

 電車が二つ目の駅に着いた。ここもぼくらの降りる駅じゃない。

 ドアは反対側が開いた。

 乗ってくる人をなにげに見ていたぼくは、一人の女の人を視界に入れて、釘付けになった。以前、我が家の前で見た薄化粧の人だった。

 その女の人がお兄ちゃんの存在に気づくまで、いろんなことを考えていたような、なにも考えられなかったような不思議な間を、ぼくはすごした。

 なぜなら、あの女の人はお兄ちゃんの元カノじゃないかと、結論づけていたからだ。だから、二人が対峙したらどんなことになるのか、内心どきどきものだった。

 いよいよ、あの女の人がお兄ちゃんの存在に気づく。目を瞠った。

 お兄ちゃんもそれに気づいたらしい。顔を振り向け、相手をじっと見ている。

 ぼくの心臓は、はらはらと変なわくわくで張り裂けそうだった。

 スローモーションみたいな時も終わり、あの人は足早にとなりの車両へ行ってしまった。

 お兄ちゃんは追いかけるんじゃないかと期待したけど、ぼくの横で首を傾げているだけだった。


「どっかで見た気がするような……」

「え? いまの人、お兄ちゃんのお知り合いじゃないの?」

「俺? いや、知らねえし。もしかしたら向こうは知ってるのかもだけど。なんかそんな感じしなかったか?」

「豪!」


 今度は男の人の集団がやってきた。

 その人たちこそ本当のお知り合いらしく、お兄ちゃんは親しげに話を始めた。

 それにしても派手な人たちだ。頭こそ黒いけど、着ている服が全体的にだぼっとして、模様もにぎやか。お兄ちゃんに話しかける声も大きい。

 その人たちに、ぼくのことを知られたくなかったのか、お兄ちゃんが背中を押しつけてきた。なにか訊かれても説明するのが面倒で、他人のふりをしようとしたのかもしれない。

 空気を読んで、ぼくは小さくなっていた。

 しかし、こっちを窺うようなだれかの声がして、ぱっと顔を上げた。さっきの人たちの一人が、お兄ちゃんの肩の上からぼくを見下ろしている。


「なんだよ、豪。ツレか? つうか、こないだのおねえチャンはどうしたよ。胸のでかい。ヤるだけヤって、はいおしまいか」

「うるせえな。そんなでかい声で人のこと触れ回んなよ。もうオヨメにいけなくなんだろ」


 低音な爆笑が車内いっぱいに響く。やがてその声は、お兄ちゃんとともにとなりの車両へ移っていった。

 ぼくらの降りる駅へ電車が着いても、お兄ちゃんは降りてこなかった。

 一人ぼっちになった途端、疲れがどっと出て、ぼくは駅の待合所からしばらく動けなかった。

 ふと、あの女の人のことを思い出す。

 お兄ちゃんは知らない人だと言った。ということは、お兄さんたちのだれかとお知り合いなのだろうか。けど、お兄ちゃんの言うように、向こうが一方的にという場合もある。

 それでもやっぱりあの人は、お兄さんたちを見てきゃあきゃあ騒ぐだけの人とは違う気がした。




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