次の日の朝、目が覚めて、ぼくはいつものように洗面所へと向かう。

 顔を洗い、眠けまなこで台所へ入ると、お兄ちゃんと一清さんがとなりの居間で言い争っていた。

 耳を澄ませてみれば、声を荒らげているのはお兄ちゃんだけで、それを、一清さんは巧いこと受け流していた。

 なにをそんなに熱くなってるのかと、ご飯の用意をしつつ、ぼくは耳を傾けた。

 すると、なにか大事なものをお兄ちゃんは失くしたらしく、それがどこにあるのかわからないことを一清さんに訴えていた。

 ちゃんとしておかないお前が悪い。そのうち、一清さんのお説教が始まり、それに逆ギレしたお兄ちゃんが居間を出ていく。

 一方、台所を通って玄関へと向かった一清さんは、ぼくには目もくれず家を出た。その肩がとても怒っていて、いってらっしゃいの声もかけられなかった。





 恐る恐る教室へ入ると、ぼくの姿を見つけたクラスメートたちが一斉に集まってきた。

 びっくりした。

 二の足を踏んでいたぼくだけど、あちらこちらから上がる病み上がりを気づかう声に押され、中へと進んだ。

 それが素直に嬉しくて、ぼくは笑顔で応えながら自分の席へついた。


「おはよう」


 勇気くんの声が聞こえた。

 ぼくの席を取り囲んでいた人たちが、ちらほらと下がり始めたころだった。

 ぼくは俯き、左胸を押さえた。後ろから近づく気配に、思い切って顔を上げる。

 朝練のあとだからか、勇気くんはうっすらと汗をかいていた。

 笑顔で、ぼくを見下ろしている。


「人夢、おはよう」


 ぼくの顔色を確認するように腰をかがめ、勇気くんは言った。

 よかった。いつもと変わらない彼だ。

 やっぱり、ぼくの取り越し苦労だったんだ。


「おはよう」

「よかったな。学校に来れるようになって」


 ぼくの肩をぽんぽん叩いていく。みんなにも挨拶をして、勇気くんは自分の席へ収まった。

 本当にいつもと変わらない彼だった。

 やがて、ホームルームを知らせるチャイムが鳴る。それと同時に教室へ入ってきた小林先生も、ぼくの顔をまず見つけて、声をかけてくれた。

 きょうの一時限目は数学。小林先生の担当する教科だから、ホームルームの雰囲気のまま授業へ移行する。

 先生の声が響く中、ぼくは斜め前に視線をやった。

 きょうは着替える間がなかったのか、勇気くんはジャージ姿だ。その背中も、いつもと変わらないように見える。

 休み時間になると、ぼくはいつものように自分の席で本を読む。

 教室でのぼくらはあまり一緒にいない。

 勇気くんの周りには人が絶えないし、急にべたべたして、変なウワサが立ったらどうしようもなくなる。

 二時限目が過ぎ、三時限目も過ぎ、四時限目の体育もなんとか終わった。

 ぺこぺこのお腹をさすりながら、にわかに騒々しくなった廊下を歩く。すると、だれかに腕を掴まれた。


「ちょっといいか」


 勇気くんの鋭い声がした。

 朝から一変して怒っているような雰囲気に、ぼくの頭も足もついていけない。ぐいぐい引っ張られ、足が何度ももつれそうになった。

 無人の体育館を縦断していく。

 昇降口へ着くと、勇気くんはやっとぼくの手を放した。

 給食の配膳の時間だから、昇降口は当たり前のように閑散としている。

 ぼくがなにも言えずにいると、勇気くんはため息をついて、少し距離を取った。額に手をやり、忙しなく坊主頭を掻く。


「あの──」

「人夢さ、そろそろおれになにか言うべきなんじゃないの」


 ぼくが思いきってかけた言葉を弾くように、勇気くんは早口で言った。

 え、と出た声をすぐに呑み込んだ。

 ……日曜日のこと、やっぱり勇気くんは知っていたんだ。


「日曜日はごめんねっ。ほんとは勇気くんも誘おうと思ったんだよ」

「……」

「だから、次に遊びに行くときは三人で行こうよ」


 勇気くんがまた頭を掻いた。さっきよりもいらいらした感じで。

 そのあとはなにも言わず、昇降口から去っていってしまった。


「なんで──」


 なんで、とぼくは繰り返した。

 自分のことを棚に上げるようだけど、健ちゃんとのことを怒っていたのなら、せめて朝、あんなふうに声をかけないでほしかった。

 ぼくは肩を落とし、出そうになる涙をぬぐう。

 ここからどうするべきなのかもわからなくて、昇降口でしばらく立ち尽くしていた。




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