お兄ちゃんが脅したほどぶっとくはなかったにせよ、注射はやっぱり注射だ。とにかく痛い。

 お兄ちゃんがとなりで見ていたから、絶対に泣くもんかと歯を食いしばったけど、ちょっと涙目になってしまった。これがあるから、お医者さんにはかかりたくなかったんだ。


「それじゃあ、あした、うちへ来てくれるかな」


 白髪まじりの初老の先生だった。耳から聴診器を外し、ケースに注射器をしまいながら言うと、往診カバンのフタを開けた。

 お兄ちゃんもかかりつけにしていたという小児科の田端先生は、優しい顔をしたアクマだと思う。ただの風邪だとぼくは言ったのに、あんな注射はするし、あしたはうちに来てだなんて言う。

 帰り支度を終えた先生が「お大事に」と立ち上がったところで、一清さんと広美さんが帰ってきた。ぼくの部屋へ入ってすぐ、先生の見送りへと向かう。

 てっきりお兄ちゃんも出ていくと思っていたけど、ベッドのそばから動こうとはしなかった。

 なにか言いたげにぼくを見下ろしている。

 きっと、きのうを思い出していて、なにを言ってやろうかと考えているに違いない。

 お兄ちゃんが口を開けた瞬間、わざとつらそうに咳をして、ぼくは布団をかぶった。

 ズルいと、自分でも思う。ありがとうもごめんなさいもいまは言えなくて、おやすみなさいを態度で示すことしかできなかった。

 そのうちお兄ちゃんは部屋を出ていった。

 しばらく、顔を合わせることもなかった。もちろん次の日の学校はお休み。

 多少、熱は下がったものの、食欲が全然なくて、田端先生のところで点滴もしてもらった。

 薬を飲むためにはお粥だけでも口にしないといけない。

 それと、栄養ドリンクは必須らしい。お兄さんたちは、風邪を引いたときに、薬と栄養ドリンクを一緒に飲むんだそう。ぼくは、あんまり気が進まなかったけど、早く治るならと半分ぐらい飲んだ。

 その次の日も、熱は八度近くあった。でも、点滴や薬の効果は確実にある。栄養ドリンクは……正直ビミョーだけど。

 見るだけでお腹いっぱいだったお粥が、けさは美味しく食べられた。


「一応は冷ましたけど、ちゃんとフーフーして食えよ」


 正午を少し回ったころ、タマゴのお粥を持って、善之さんがぼくの部屋へやってきた。


「……善之さんが作ってくれたの?」


 善之さんがご飯を作るのは、お兄ちゃんの次に珍しいことだ。布団の上に乗せられたお盆を、ぼくはまじまじと眺めた。

 ああと頷いて、善之さんは学習机の椅子を引っ張ってきた。背もたれを前にして、勢いよく腰を下ろす。


「広美が作ったヤツは、さっき俺が食っちまって。悪ぃな。それで勘弁して」

「まさか善之さんも風邪? もしかして移しちゃった?」

「いや、違う」


 善之さんは笑い混じりで言うと、気にするなと続けて、手を振った。


「そんなことより具合はどうだ。食欲ないって聞いてたけど、結構いけるみたいだな」

「うん。きのうよりだいぶいいよ。それに、このタマゴのお粥が美味しくて」

「それはそれは」


 ぼくが空にした器を見て、善之さんは満足げに口角を上げた。

 お盆に同じく乗せられてきた薬も飲み、コップを置いたところで、きのうは全く顔を合わせなかったお兄ちゃんを思い浮かべた。


「そういえばあいつ──」


 善之さんは言いかけ、お盆を持ち上げた。学習机へ椅子を収める。


「豪のやつさ。お前が風邪を引いた原因は自分にあるって、しょげてるらしいぞ」

「え?」

「大事なテストが控えてるってのもあるけど、ゆうべはやけに大人しかったって、広美が笑ってた」


 善之さんは「じゃあ」と片手を上げると、小刻みに肩を震わせながら部屋を出ていった。

 少し反芻してみて、ぼくは首を傾げた。

 お兄ちゃんがなぜ、ぼくの風邪の原因が自分にあると思っているのかわからない。

 あの日、いつまでも裸でいたぼくが悪いんだ。その裸でいたきっかけもぼくが作った。どう考えてもお兄ちゃんのせいじゃない。

 歯を磨こうと洗面所に立って、ぼくはあることを思い出した。

 洗面所の鏡に映っている入り口を見つめる。もしかしたら、あそこで意地悪をしたことをお兄ちゃんは気にしているのかもしれない。

 歯を磨き終え、再びベッドへ潜った。目を閉じて思い巡らせたのは、田端先生が帰ったあとのこと。

 ……あのとき、お兄ちゃんはぼくに謝ろうとしていたのかな。

 胸の奥が痛んだ。

 きゅっとなる心を抱えつつ、まぶたは重くなっていく。

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