ぼくの家へ着くと、健ちゃんは、お兄さんたちに体調のことを話して、すぐに医者に連れていってもらったほうがいいと、何度も念を押した。

 それに頷きながら、お礼も言いながら、ぼくは玄関の戸を開けた。でも、そのころには吐き気は収まっていた。

 一安心して、靴を脱ぐ。しかし、台所へ入ろうとしたら、また気持ち悪くなった。

 ひとまずの安堵で気を抜いていたぶん、やってきた波は大きかった。口を押さえ、廊下へ膝をつく。

 脂汗がどっと吹き出してきた。

 湧き上がる吐き気を必死で抑え、トイレのほうへと体を向けたら、ものすごい音が降ってきた。

 どしどしと階段を下りてくる足音は、紛れもなくお兄ちゃんのもの。お兄さんたちのだれかであることを願いたかったけれど、あの音にぼくは敏感なんだ。


「なに、お前。そんなとこでどうしたんだよ」


 やがて飛んできた声に、ぼくは空いてるほうの手を出し、なんでもないを示した。首も振る。

 お兄ちゃんは本当にものすごいタイミングで現れる。こんなどうしようもない姿を一番見られたくないヒトなのに。廊下で戻したら、死ぬまで笑い者にされそうだ。

 だけど、ぼくは動けなかった。ちょっとでも動いたら、確実に吐いてしまう。

 体を丸めてただ耐えるぼくの前に、洗面器が出てきた。

 ぼくの背を、お兄ちゃんがさする。


「気分悪いんだろ。なんか顔色すげえし。……出せ?」


 心配してくれているようなお兄ちゃんの声。廊下に洗面器が置かれる。

 でも、ここではどうしても戻したくなくて、首を振ってかたくなに拒否していたら、洗面器の縁が甲にあてがわれ、最後には怒鳴られた。


「そんな顔して、なにやせ我慢してんだ。ほら、気持ち悪ぃんだろ。出せって」


 厳しい語気とは裏腹に、背中をさすってくれる手は優しい。

 なんだか小さいころを思い出した。具合が悪いとき、お母さんに背中をさすってもらうだけで、不思議と苦しさは和らいだ。

 ぼくは観念した。洗面器を持ち、嘔吐を繰り返す。涙と鼻水も出た。

 吐き気は一段落ついても、悪寒はひどくなる一方だった。

 洗面所でぼくが口をすすいでいるあいだ、お兄ちゃんは後始末をしてくれていたのか、トイレから物音がした。ありがとうの一言でもかけるべきだったのかもしれないけれど、途方もない申し訳なさと、早く横になりたい気持ちで、ぼくは黙って自室へ向かった。

 パジャマに着替え、ベッドへ深く潜る。急にまたどうして具合が悪くなったのかを考えながら目を閉じた。

 やがて、背にしていたドアからお兄ちゃんの声がした。のそりと振り返れば、今度は体温計が出てきた。


「とりあえず計っとけ」


 険しい顔でぶっきらぼうに言ったお兄ちゃんは携帯電話を耳にあてがっている。

 ぼくは、受け取った体温計を脇の下へ差し込み、離れていく背中を見つめた。


「俺だけどさ。いまどこにいんだよ」


 その声はドアの向こうになり、どんどんと遠ざかっていく。

 一清さんも広美さんも、朝はいたはずなのに、いまはお兄ちゃんの姿しかない。

 それがどういうことか、天井を眺めながら考えているうちに、小さな電子音がした。タイミングよくドアが開く。お兄ちゃんはまだ電話中だった。


「あ? いねえよ。いねえから、お前に電話してんだろ」


 ぼくが体温計を出すと、お兄ちゃんは喋りながら奪っていく。表示されている数字を見て、さらに眉をひそめた。

 ぼくにじゃなく、電話の相手にお兄ちゃんは言う。


「八度七分。結構あんじゃん。……つっても、きょうは医者なんかやってねえだろ」


 なんとなくわかった。口調からして、広美さんに電話しているんだと思う。広美さんも一清さんも、やっぱり家にいないんだ。

 しかし、それよりも大事なことを、お兄ちゃんは言った気がする。

 ぼくは、携帯を切っている手を掴んだ。


「お、お兄ちゃん。あのね」

「あ?」

「寝てれば、たぶん平気だと思うんだ。だから──」


 ぼくがなにを言いたいのかわかったらしいお兄ちゃんは、携帯電話をポケットへ突っ込んだ。

 そして、トドメを言い放つ。


「医者は呼ばないでなんて言わせねえからな。九度近くもあるくせによ。いいか、ぶっとい注射をお願いしますって言っといてやるから、大人しく寝てろ」




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