服を着たあとに学習机へ向かっていたら、家電の着信音が聞こえた。珍しいなと思ってすぐ、ぼくは健ちゃんを思い出した。

 お兄ちゃんの大きな声が飛んでくる。

 ぼくが急いで居間へ行くと、電話を取ったお兄ちゃんはなぜか不機嫌な顔で、受話器を伸ばした。


「電話」

「うん」

「三津谷から」


「え」と、ぼくは手を引っ込めそうになった。

 お兄ちゃんから受話器をもらう。


「もしもし。勇気くん?」

「おう、人夢。おはよう」

「うん、おはよう。……ええと。どうしたの?」


 ぼくらの間柄ならば、とくに用事のない電話があってもおかしくないのに、つい驚くような声で訊いてしまった。

 一呼吸の間ののち、勇気くんが早口で言う。


「いや、いまなにしてるかなって。ただ、それだけ。あ、忙しかった?」

「ううん。平気。……電話、ありがとう」


 また「間」ができる。

 ぼくは、勇気くんのおばあちゃんのことを、もう一度訊いてみた。今度はすぐに「大丈夫」と返ってきて、勇気くんは、来週には退院できるとも教えてくれた。


「なんか悪ぃな。気にしててくれたみたいで。ありがとな」

「ううん」

「ところでさ。……人夢って、あしたヒマ?」

「え?」

「もしヒマなら、どっか行かねえ? 部活ないんだ、あした。できれば午前中から出かけて、一緒に昼メシ食いたいんだよな」


 そのお誘いに被せる勢いで「うん」と言いたかったけど、ぼくはできなかった。


「人夢?」

「……あの、ごめんね。あしたは用事があって……」

「用事? お兄さんたちと出かけんの?」


 訊かれたのだから、健ちゃんと約束があるってちゃんと言わなきゃいけないのに、ぼくはためらってしまった。

「勇気には内緒」という制約が喉を締めつける。

 ぼくが友だちと出かけたからって、勇気くんが気に病むわけもない。ヤキモチなんて焼くはずがないし、そんなことで怒る彼でもない。

 それはわかっているんだけど、「面倒なこと」にはなりそうな気がして、口を噤んでしまった。


「──人夢?」

「あ、ああ。あのね。お義父さんのお店を掃除しに行くことになっちゃったんだ。お兄ちゃんと一緒に」


 とっさに出たような、考えた末に出したようなウソ。言ったそばから後悔した。


「ご、ごめんね」

「いや、全然。また今度な」


 それから勇気くんは、月曜日に貸してくれることになっていたDVDに触れて、電話を切った。

 ぼくも受話器を置いて、その途端にため息が出る。


「つうかさぁ。お前とお出かけなんて、俺は聞いてねえんだけど」


 お兄ちゃんの声が聞こえ、ぼくは顔を振り上げた。台所からこっちを覗いている目と目が合う。

 お兄ちゃんは片眉を上げ、さもなにか言いたげな顔をしている。鴨居に手をかけると首を屈め、居間へ入ってきた。

 ぼくの言葉が尖る。


「聞いてたの」

「そこでメシ食ってたんだ。イヤでも聞こえてくるだろうが」


 ぼくは俯いた。ウソをついたのもそうだけど、いまの電話のやりとりの中に、ぼくたちの関係が悟られるような言葉はなかったか、必死で脳内を引っ掻き回していた。


「まあ、たしかに? ウゼェくらいに熱くて、グサグサ正論を並べ立てるムカつくチビだ。三津谷は。それでもお前にとったら仲間思いの頼れるヤツなんだろ。あいつとなにがあったか知らねえが、そうやって嘘ついちゃうほど嫌いになっちゃったか」


 最後は嘲笑も含んでいるように聞こえて、ぼくは目を上げた。

 お兄ちゃんは案の定、にやにやしていた。

 かっとなる。


「そんなのお兄ちゃんには関係ない」

「あ?」

「お兄ちゃんだってどうせ、いままでいっぱいウソついてきたくせに!」


 強く言い切ってやった。

 すると、お兄ちゃんの表情がみるみるうちに変わっていった。眉間に太いしわが刻まれる。


「どうせってなんだ。関係ねえってお前、ダシに使われて口を挟まずにいられますかってハナシだろうが。ああ?」


 いきなり胸倉を掴まれた。降ってきた怒鳴り声は、いまにも拳骨になりそうだった。

 ここまで激昂させたのは本当に久しぶりで、ぼくは肩をすくめて目をつむり、ただ耐えるしかできなかった。

 お兄ちゃんの舌打ちが聞こえる。襟ぐりから手が離れると、足音も二階へと遠のいていった。

 口がへの字に歪む。怖かったのと、いまのはぼくが悪いんだという反省で。

 お兄ちゃんがキレるのも仕方ない。

 頭上で大きな物音がした。お兄ちゃんの下りてくる足音もして、ぼくははっとなった。しかし、謝らさせてくれる隙も与えないほどお兄ちゃんは足早に、玄関から出ていった。




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