三
服を着たあとに学習机へ向かっていたら、家電の着信音が聞こえた。珍しいなと思ってすぐ、ぼくは健ちゃんを思い出した。
お兄ちゃんの大きな声が飛んでくる。
ぼくが急いで居間へ行くと、電話を取ったお兄ちゃんはなぜか不機嫌な顔で、受話器を伸ばした。
「電話」
「うん」
「三津谷から」
「え」と、ぼくは手を引っ込めそうになった。
お兄ちゃんから受話器をもらう。
「もしもし。勇気くん?」
「おう、人夢。おはよう」
「うん、おはよう。……ええと。どうしたの?」
ぼくらの間柄ならば、とくに用事のない電話があってもおかしくないのに、つい驚くような声で訊いてしまった。
一呼吸の間ののち、勇気くんが早口で言う。
「いや、いまなにしてるかなって。ただ、それだけ。あ、忙しかった?」
「ううん。平気。……電話、ありがとう」
また「間」ができる。
ぼくは、勇気くんのおばあちゃんのことを、もう一度訊いてみた。今度はすぐに「大丈夫」と返ってきて、勇気くんは、来週には退院できるとも教えてくれた。
「なんか悪ぃな。気にしててくれたみたいで。ありがとな」
「ううん」
「ところでさ。……人夢って、あしたヒマ?」
「え?」
「もしヒマなら、どっか行かねえ? 部活ないんだ、あした。できれば午前中から出かけて、一緒に昼メシ食いたいんだよな」
そのお誘いに被せる勢いで「うん」と言いたかったけど、ぼくはできなかった。
「人夢?」
「……あの、ごめんね。あしたは用事があって……」
「用事? お兄さんたちと出かけんの?」
訊かれたのだから、健ちゃんと約束があるってちゃんと言わなきゃいけないのに、ぼくはためらってしまった。
「勇気には内緒」という制約が喉を締めつける。
ぼくが友だちと出かけたからって、勇気くんが気に病むわけもない。ヤキモチなんて焼くはずがないし、そんなことで怒る彼でもない。
それはわかっているんだけど、「面倒なこと」にはなりそうな気がして、口を噤んでしまった。
「──人夢?」
「あ、ああ。あのね。お義父さんのお店を掃除しに行くことになっちゃったんだ。お兄ちゃんと一緒に」
とっさに出たような、考えた末に出したようなウソ。言ったそばから後悔した。
「ご、ごめんね」
「いや、全然。また今度な」
それから勇気くんは、月曜日に貸してくれることになっていたDVDに触れて、電話を切った。
ぼくも受話器を置いて、その途端にため息が出る。
「つうかさぁ。お前とお出かけなんて、俺は聞いてねえんだけど」
お兄ちゃんの声が聞こえ、ぼくは顔を振り上げた。台所からこっちを覗いている目と目が合う。
お兄ちゃんは片眉を上げ、さもなにか言いたげな顔をしている。鴨居に手をかけると首を屈め、居間へ入ってきた。
ぼくの言葉が尖る。
「聞いてたの」
「そこでメシ食ってたんだ。イヤでも聞こえてくるだろうが」
ぼくは俯いた。ウソをついたのもそうだけど、いまの電話のやりとりの中に、ぼくたちの関係が悟られるような言葉はなかったか、必死で脳内を引っ掻き回していた。
「まあ、たしかに? ウゼェくらいに熱くて、グサグサ正論を並べ立てるムカつくチビだ。三津谷は。それでもお前にとったら仲間思いの頼れるヤツなんだろ。あいつとなにがあったか知らねえが、そうやって嘘ついちゃうほど嫌いになっちゃったか」
最後は嘲笑も含んでいるように聞こえて、ぼくは目を上げた。
お兄ちゃんは案の定、にやにやしていた。
かっとなる。
「そんなのお兄ちゃんには関係ない」
「あ?」
「お兄ちゃんだってどうせ、いままでいっぱいウソついてきたくせに!」
強く言い切ってやった。
すると、お兄ちゃんの表情がみるみるうちに変わっていった。眉間に太いしわが刻まれる。
「どうせってなんだ。関係ねえってお前、ダシに使われて口を挟まずにいられますかってハナシだろうが。ああ?」
いきなり胸倉を掴まれた。降ってきた怒鳴り声は、いまにも拳骨になりそうだった。
ここまで激昂させたのは本当に久しぶりで、ぼくは肩をすくめて目をつむり、ただ耐えるしかできなかった。
お兄ちゃんの舌打ちが聞こえる。襟ぐりから手が離れると、足音も二階へと遠のいていった。
口がへの字に歪む。怖かったのと、いまのはぼくが悪いんだという反省で。
お兄ちゃんがキレるのも仕方ない。
頭上で大きな物音がした。お兄ちゃんの下りてくる足音もして、ぼくははっとなった。しかし、謝らさせてくれる隙も与えないほどお兄ちゃんは足早に、玄関から出ていった。
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