「んな顔すんなよ。こっちも悪かったって」

「……ほんとだよ」

「頭とか打たなくて、マジよかった」


 お兄ちゃんはほっと息をつき、前髪を掻き上げた。ふと、ぼくの目を見る。

 同じ屋根の下で暮らしているのだから、ままあることだけど、今回のはちょっと違う。なかなかお兄ちゃんが視線を外してくれない。

 ついぼくも見つめてしまっていた。

 そこへ呼び鈴が鳴った。

 あまりにびっくりして、ぼくの口から変な声が出る。お兄ちゃんを改めて見上げた。


「よ、善之さんかな」

「アホ。善之がわざわざピンポン鳴らすかよ」


 お兄ちゃんは言いながら玄関のほうへ足早に向かった。

 やがて聞こえてくるもう一つの声。それにもぼくはびっくりして、脱衣場から顔だけを覗かせた。


「やあ、人夢くん。こんにちは」


 すぐに目が合った。こんにちはと、ぼくも笑みを乗せて返す。

 玄関に立っていたのは、グレーのワイシャツに格子縞のズボンと、とてもシックな格好の次郎さんだった。きょうは眼鏡をかけている。


「あれ。人夢くん、どうしたの」


 顔しか見せないぼくを訝しむように次郎さんはお兄ちゃんをちらっと見上げた。

 パンツ一丁だから出るに出られないとは、さすがのお兄ちゃんも言えまい。


「ああー。なんかさ、風呂掃除してるときに水被ったらしくて、いま非常に残念な姿で──」

「ちょっと!」


 振り返ったお兄ちゃんへ、「余計なことを言うな」視線を送っていたら、次郎さんに笑われてしまった。


「なんだかんだ、きみたちって仲いいよね」

「うるせえよ。つうか、きょうはなに? なんなら上がってけば?」


 お兄ちゃんはひどくぶっきらぼうに返す。それにも次郎さんはくすっとしていた。

「上がってけば」の言葉には、ぼくも賛成したい。いますぐ廊下へ飛び出していって、次郎さんの手を引っ張りたいくらいだ。


「できればそうしたかったんだけどね。すぐに戻らなきゃなんだ」


 次郎さんは本当に残念そうな表情をしたあと、持っていた紙袋をお兄ちゃんへ渡した。


「なんだよ」

「きのう旅行に行ってきたから、そのお土産」

「へえ」

「それと、遅くなったけど、高校入学のお祝いも」


 紙袋の中を覗いていたお兄ちゃんが手を止めた。

 ぼくには背中しかわからないけど、きっと視線を泳がせて、お礼を言うべきなのか迷っているに違いない。嬉しさを見せないように必死になっているに違いない。

 次郎さんは、急に黙ったお兄ちゃんからぼくへと目を向けた。にこっと微笑む。


「人夢くん。うちの店にまた遊びにおいで」

「……あ」


 そういえば、次郎さんのお店に先週お邪魔したんだった。いろんな型や口金を見せてもらったり、実際に使ってクッキーを焼いたりした。横長のオーブンは本当に大きかったし、カッターやナイフもプロ仕様だった。


「あの、このあいだはありがとう」

「いやいや」


 次郎さんは手を振ると、じゃあと残して、玄関の戸を開けた。その後ろ姿が見えなくなるまで、お兄ちゃんは上がりがまちから動かなかった。


「お土産はどこのかな。お祝いって、なにもらったの?」


 ぼくは、台所へ入っていくお兄ちゃんをすぐさま追う。

 無造作に食卓へ置かれた紙袋。その中には、大きなおせんべいが入った袋と、きれいにラッピングされた小さな箱があった。

 目の前で朝ご飯を並べているお兄ちゃんをちらっと見てから、ぼくはそれらを取り出した。


「『そうか』……せんべいだって。お兄ちゃん、どこのか知ってる?」

「『そうか』せんべいっつったら『そうか』のもんだろ」

「ふうん……。じゃなくて! どこの県か訊いたの」

「それはご自分でどうぞ」


 なんだ。お兄ちゃんだって知らないんじゃん。

 そう言おうとして、ぼくは口を閉じた。もごもごしながら、小さな箱を手にする。

 大きさから考えると腕時計の気もする。


「次郎さん、なにを贈ってくれたのかな」

「万年筆だろ」


 即答だった。


「なんで」


 炊飯器からご飯をよそい、お兄ちゃんは椅子へ腰を下ろした。ぼくの作っただし巻き玉子を口に入れ、半笑いで喋る。


「兄貴も親父も万年筆くれてさ、たしかそんな大きさの箱だったぜ。だから、広美と善之にはカネにしてもらった」

「事前に相談とかしないのかな」

「は? 相談? あの親父たちがそんなんするかよ」

「どうして? 仲が悪いわけじゃないんだから、お兄ちゃんになにあげようかって、相談したほうがカブらなくてよかったじゃん」

「んなことは知らねえよ。とにかくうちはそういうもんなんだ」


 ぼくは首をひねった。

 そういうもんだと言われて、はいそうですかとはいかれない。


「お前も早めに手ぇ打っといたほうがいいぞ。万年筆よりカネでお願いしますって」


 お兄ちゃんはまだしも、そんな図々しいお願いが、ぼくにできるはずがない。ただ、万年筆が三本になるのは困るから、相談だけでもしてもらおうと思う。

 ……とはいえ、まだまだ先の話だけども。


「ところでお前、いつまでそんな格好でいるんだよ。風邪引いても俺は知らねえからな」


 だし巻き玉子をまず食べ終え、お兄ちゃんはその箸をこっちへ向けた。

 相変わらず三角食べをしない人だ。そう思いつつも、自分は大層もないことになっていたと気づく。

 小さな悲鳴のついでにくしゃみも出た。

 お兄ちゃんが笑いを吹く。


「危機感なさすぎだろ。そういうやつは一回でも痛い目見ねえとわかんねえんだよな」


 ぐうの音も出なかった。

 パンイチもそうだけど、薄着でうたた寝をしていたお兄ちゃんへ呆れたことを、まんま返されたショックもあった。

 お兄ちゃんの視線がそっぽへ流れていくと同時に、ぼくはすごすごと自分の部屋へ引っ込んだ。




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