四
ただいまと玄関の戸を開けると、家の中は異様に静かだった。ぼくは慌てて靴を脱いだ。
まだ夕ご飯を作っている最中かなと予想していたけれど、思いのほか遅くなってしまったのかもしれない。
台所のガラス戸を恐る恐る開けた。
「ただいま……。あれ?」
食卓の上には布巾のかかったおかずがある。ちらっと覗いたら、まだ手つかずだった。
ぼくは背負いカバンを椅子へ下ろし、首を傾げながら手を洗った。
そして、居間で寝ているお兄ちゃんを見つけた。二つ折りの座布団を枕代わりにして眠っていた。
「またあんな薄着で寝て……。風邪でも引いたらどうするの」
昼間は暑いといっても、そこは盛夏と違う。日が沈めばいくらか涼しくなる。それなのに、お兄ちゃんはタンクトップにハーフパンツという格好で寝ていた。
……こういう危機感のない人って、ものすごい風邪を一度でも引いたらわかってくれるのかな。
このままほったらかしにでもしようと思ったけど、なんだかんだとぼくのせいにされそうだから、やめることにした。となりの押入れからタオルケットを出し、お兄ちゃんへかけてあげる。
それから、なにげなく座卓の下へ目をやって、ぼくは大声を上げた。
「あー」
あとのお楽しみにと取っておいたメロンパンが、無残にも袋だけになって落ちていた。
本当はもう一つあったのかもしれないと思って、台所のサイドボードを確認したけど、やっぱりぼくのメロンパンはなかった。
あれは普通のと違って、エメラルドグリーンのしっとりクッキー生地に、メロン味のオレンジ色のクリームが入っている。売り切れていることが多くて、ようやく手に入れられた大切なおやつだったのに。
「よりによって、なんで全部食べちゃうの。甘いもの嫌いなくせに」
そこでのうのうと寝ている犯人をぼくは睨みつけてやった。
「ねえ、お兄ちゃん。ちょっと起きてよ」
どうしても許せなくて、でんと横になっている体を揺すったら、それまで変化のなかった顔に苦みがさした。
でも、寝返りを打っただけで、起き上がる気配はない。
ぼくはため息をついて、完全に腰を落とした。お兄ちゃんの寝顔を見つめる。
こんなところでうたた寝するのだから、とっても疲れているのかもしれない。
課題とかプールとか、体力作りのジムとか、ぼくより断然忙しいのに、そんな疲れを感じさせないくらい、お兄ちゃんはいろんな友だちと遊んでいる。家の中じゃ思いっきり腰の重い人だけど、外に出たら、あれやこれやと気を配ったりするのだろうか。
それを想像してぼくは畳に沈んだ。ガラにもないんだもの。
たとえば女の子と出かけたとする。相手のカバンを持ってあげたり、文句も言わずショッピングにつき合ったり、食事へ行って、そこがバイキング形式のところだったら、料理を取ってあげたりするのだろうか。
ぼくと焼肉屋さんへ行ったときは、人に焼かせるだけ焼かして、全部自分で食べちゃうような、このお兄ちゃんだ。相手にはばかることなく、機嫌の悪さを顔にも態度にも表しちゃうような、このお兄ちゃんだ。
だれかに気を使う姿なんて、ぼくには到底想像できない。
いまだって現に……。
ずっと握っていたメロンパンの袋を見やって、お兄ちゃんにも目をやった。
すると、細いながらも、眼下のまぶたは開いていた。当然、こっちを向く。
「ひっ」
いきなりのことにびっくりして、ぼくは肩を跳ね上げたまま固まった。
その間にもお兄ちゃんは半身を起こし、伸びをする。時計を見上げて大あくびをした。
とっさにぼくはメロンパンの空袋を差し出した。
「ね、ねえ。これ」
「あ?」
「これ、なに。なんなの」
「なんなのって……。ゴミ?」
「ご、」
空袋を引っ込めるしかなかった。
これだけを見たら、たしかにゴミだ。ゴミだけど、そういうことを訊きたかったわけじゃない。
「いいよ。もう」
「あ? ちょっと待てよ」
ビニール袋をくしゃくしゃに丸めて、ぼくは立ち上がろうとした。しかし、その手をお兄ちゃんに掴まれる。
「お前、俺をさんざん待たしておいて、第一声がそれかよ」
「え?」と、ぼくが目を丸くすると、イライラした感じでお兄ちゃんは頭を掻き毟った。無言で居間を立ち去っていく。
その後ろ姿をぼくはぼう然と目で追った。
台所の古い床を、なにか言いたげにお兄ちゃんがどしどしと歩く。
食卓にあった手のついてないおかずの意味がようやくわかった。ゴミをくずかごに投げ、ぼくは勢いよく腰を上げた。
「あの、ごめんね」
ぼくが台所に行くと、お兄ちゃんはご飯をよそっていた。自分のぶんと、おそらくはぼくのぶん。
「ごめんね。ぼくのこと待っててくれたのに気がつかなくて」
「ほら」
お兄ちゃんへと歩み寄るぼくの前に山盛りのご飯が差し出された。
予想外の笑顔でいるから、とりあえず受け取ってみたけど、こんなマンガみたいな盛り方はない。
「せっかくお兄ちゃんがよそってやったんだ。残さず食えよ」
愉しげに目を細めたお兄ちゃんを見てぼくは改めて思う。
天地が逆さまになっても、お兄ちゃんはお兄ちゃんだ。ぼくを気遣うことなんて絶対にない。
ましてや、率先して重いものを持ったり、おとなしく買い物につき合ったり、素直にご飯をよそってくれたりはしない。
この人は、こういうヒトなんだ。
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