ただいまと玄関の戸を開けると、家の中は異様に静かだった。ぼくは慌てて靴を脱いだ。

 まだ夕ご飯を作っている最中かなと予想していたけれど、思いのほか遅くなってしまったのかもしれない。

 台所のガラス戸を恐る恐る開けた。


「ただいま……。あれ?」


 食卓の上には布巾のかかったおかずがある。ちらっと覗いたら、まだ手つかずだった。

 ぼくは背負いカバンを椅子へ下ろし、首を傾げながら手を洗った。

 そして、居間で寝ているお兄ちゃんを見つけた。二つ折りの座布団を枕代わりにして眠っていた。


「またあんな薄着で寝て……。風邪でも引いたらどうするの」


 昼間は暑いといっても、そこは盛夏と違う。日が沈めばいくらか涼しくなる。それなのに、お兄ちゃんはタンクトップにハーフパンツという格好で寝ていた。

 ……こういう危機感のない人って、ものすごい風邪を一度でも引いたらわかってくれるのかな。

 このままほったらかしにでもしようと思ったけど、なんだかんだとぼくのせいにされそうだから、やめることにした。となりの押入れからタオルケットを出し、お兄ちゃんへかけてあげる。

 それから、なにげなく座卓の下へ目をやって、ぼくは大声を上げた。


「あー」


 あとのお楽しみにと取っておいたメロンパンが、無残にも袋だけになって落ちていた。

 本当はもう一つあったのかもしれないと思って、台所のサイドボードを確認したけど、やっぱりぼくのメロンパンはなかった。

 あれは普通のと違って、エメラルドグリーンのしっとりクッキー生地に、メロン味のオレンジ色のクリームが入っている。売り切れていることが多くて、ようやく手に入れられた大切なおやつだったのに。


「よりによって、なんで全部食べちゃうの。甘いもの嫌いなくせに」


 そこでのうのうと寝ている犯人をぼくは睨みつけてやった。


「ねえ、お兄ちゃん。ちょっと起きてよ」


 どうしても許せなくて、でんと横になっている体を揺すったら、それまで変化のなかった顔に苦みがさした。

 でも、寝返りを打っただけで、起き上がる気配はない。

 ぼくはため息をついて、完全に腰を落とした。お兄ちゃんの寝顔を見つめる。

 こんなところでうたた寝するのだから、とっても疲れているのかもしれない。

 課題とかプールとか、体力作りのジムとか、ぼくより断然忙しいのに、そんな疲れを感じさせないくらい、お兄ちゃんはいろんな友だちと遊んでいる。家の中じゃ思いっきり腰の重い人だけど、外に出たら、あれやこれやと気を配ったりするのだろうか。

 それを想像してぼくは畳に沈んだ。ガラにもないんだもの。

 たとえば女の子と出かけたとする。相手のカバンを持ってあげたり、文句も言わずショッピングにつき合ったり、食事へ行って、そこがバイキング形式のところだったら、料理を取ってあげたりするのだろうか。

 ぼくと焼肉屋さんへ行ったときは、人に焼かせるだけ焼かして、全部自分で食べちゃうような、このお兄ちゃんだ。相手にはばかることなく、機嫌の悪さを顔にも態度にも表しちゃうような、このお兄ちゃんだ。

 だれかに気を使う姿なんて、ぼくには到底想像できない。

 いまだって現に……。

 ずっと握っていたメロンパンの袋を見やって、お兄ちゃんにも目をやった。

 すると、細いながらも、眼下のまぶたは開いていた。当然、こっちを向く。


「ひっ」


 いきなりのことにびっくりして、ぼくは肩を跳ね上げたまま固まった。

 その間にもお兄ちゃんは半身を起こし、伸びをする。時計を見上げて大あくびをした。

 とっさにぼくはメロンパンの空袋を差し出した。


「ね、ねえ。これ」

「あ?」

「これ、なに。なんなの」

「なんなのって……。ゴミ?」

「ご、」


 空袋を引っ込めるしかなかった。

 これだけを見たら、たしかにゴミだ。ゴミだけど、そういうことを訊きたかったわけじゃない。


「いいよ。もう」

「あ? ちょっと待てよ」


 ビニール袋をくしゃくしゃに丸めて、ぼくは立ち上がろうとした。しかし、その手をお兄ちゃんに掴まれる。


「お前、俺をさんざん待たしておいて、第一声がそれかよ」


「え?」と、ぼくが目を丸くすると、イライラした感じでお兄ちゃんは頭を掻き毟った。無言で居間を立ち去っていく。

 その後ろ姿をぼくはぼう然と目で追った。

 台所の古い床を、なにか言いたげにお兄ちゃんがどしどしと歩く。

 食卓にあった手のついてないおかずの意味がようやくわかった。ゴミをくずかごに投げ、ぼくは勢いよく腰を上げた。


「あの、ごめんね」


 ぼくが台所に行くと、お兄ちゃんはご飯をよそっていた。自分のぶんと、おそらくはぼくのぶん。


「ごめんね。ぼくのこと待っててくれたのに気がつかなくて」

「ほら」


 お兄ちゃんへと歩み寄るぼくの前に山盛りのご飯が差し出された。

 予想外の笑顔でいるから、とりあえず受け取ってみたけど、こんなマンガみたいな盛り方はない。


「せっかくお兄ちゃんがよそってやったんだ。残さず食えよ」


 愉しげに目を細めたお兄ちゃんを見てぼくは改めて思う。

 天地が逆さまになっても、お兄ちゃんはお兄ちゃんだ。ぼくを気遣うことなんて絶対にない。

 ましてや、率先して重いものを持ったり、おとなしく買い物につき合ったり、素直にご飯をよそってくれたりはしない。

 この人は、こういうヒトなんだ。



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