雨はすっかり上がっている。風はまだあった。

 街灯が一際明るい角を曲がったとき、ぼくはだれかに呼び止められた。見覚えのある自転車が横で止まる。

 健ちゃんだ。ぼくの顔を見るなり、眉をひそめた。


「人夢くん、いま帰り? ずいぶん遅いんだね」

「……うん」


 勇気くんちへ寄ってきたと言おうと思ったけど、なんとなく口にできなかった。

 ぼくの目線の先には見慣れたスポーツバッグがある。相変わらず無造作に自転車のカゴに刺さっている。


「健ちゃんはやっぱりプール? 毎日えらいね」

「まあ、いまんとこの趣味みたいなもんだから」


 自転車に跨ったままの健ちゃんはハンドルから手を離すと、上体を起こして腕を組んだ。


「豪さんみたくかっけえスイマーに早くなりたいし」


 健ちゃんの瞳がキラキラと輝いている。

 そういえば、勇気くんもああいう瞳をするときがある。

 野球で全国一になるという夢があるからだ。それは、彼の目標でもある。

 ぼくは自分の足元を見つめた。


「人夢くんてさ。もしかして知らないんじゃない?」


 ぼくは顔を上げた。首を傾げる。


「豪さんがどれだけすごい競泳選手か」


 健ちゃんはそれから、まるで身内を自慢するかのように、お兄ちゃんのことを鼻高々に語った。


「あんなオールマイティにできる人、そういないしさ。メドレー辺りで、オリンピックも狙えるんじゃないかな」

「うそ。オリンピック?」


 驚きのあまり、ぼくは一歩後ろに下がった。

 お兄ちゃんの泳ぎの上手さは、プールに何回か見学に行っているからぼくも知っている。だけど、そんなにすごい「選手」だったなんて思いもしなかった。

 たしかにフォームもきれいだ。それこそすいすい泳ぐイメージで、水しぶきが少ない。

 夏休みにみんなで海水浴へ行ったときも、平泳ぎではあるけど、なめらかな泳ぎを披露していた。海はプールと違って、波という障害があるのに、それをものともしていなかった。

 ただ、そのあとは、ぼくの命綱でもある浮き輪に意地悪ばっかりしていたけど。


「──危ないよ、人夢くん」


 不意に腕を引っ張られて我に返った。

 ぼくらの横を一台の車が通っていく。勇気くんの家のある小路へ入っていった。

 ちらっと見えた運転席の人がこっちに向かって手を上げた。

 健ちゃんが小声で「どうも」と返す。会釈もする。


「健ちゃんの知っている人?」

「うん」


 健ちゃんはまだぼくの腕を掴んでいる。


「勇気のオヤジさんだよ」

「え?」


 ぼくは、お父さんが迎えに来ると勇気くんが言っていたのを思い出した。

 しっかりと見れなくて残念なのか、よかったのか。それでも、あの人が勇気くんのお父さんか……と思ったいたら、また健ちゃんに腕を引かれた。


「そんなことよりも人夢くん。あさってヒマ?」

「……あさって? え、なんで」

「ほら、前に言ってた埋め合わせ。あさってじゃだめかな」


 そんな約束をほとんど忘れかけていたぼくはあっと声を上げた。

 一緒に行こうと、健ちゃんが誘ってくれた先月の花火大会。なのにぼくは、ひどく一方的に断ってしまったんだ。

 そのお詫びに、改めて二人で遊ぼうという話になっていた。


「いい? あさって」

「うん」


 あさってはもともと予定がなかったと、心の中で、だれに言うわけもない言い訳をつけ足す。


「じゃあ、詳しいことはあした。電話するから」


 それにもぼくが頷くと、健ちゃんは満面の笑みで去っていった。

 その後ろ姿の向こう。さっきまで停まっていたあの車はもういなくなっていた。



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