三
雨はすっかり上がっている。風はまだあった。
街灯が一際明るい角を曲がったとき、ぼくはだれかに呼び止められた。見覚えのある自転車が横で止まる。
健ちゃんだ。ぼくの顔を見るなり、眉をひそめた。
「人夢くん、いま帰り? ずいぶん遅いんだね」
「……うん」
勇気くんちへ寄ってきたと言おうと思ったけど、なんとなく口にできなかった。
ぼくの目線の先には見慣れたスポーツバッグがある。相変わらず無造作に自転車のカゴに刺さっている。
「健ちゃんはやっぱりプール? 毎日えらいね」
「まあ、いまんとこの趣味みたいなもんだから」
自転車に跨ったままの健ちゃんはハンドルから手を離すと、上体を起こして腕を組んだ。
「豪さんみたくかっけえスイマーに早くなりたいし」
健ちゃんの瞳がキラキラと輝いている。
そういえば、勇気くんもああいう瞳をするときがある。
野球で全国一になるという夢があるからだ。それは、彼の目標でもある。
ぼくは自分の足元を見つめた。
「人夢くんてさ。もしかして知らないんじゃない?」
ぼくは顔を上げた。首を傾げる。
「豪さんがどれだけすごい競泳選手か」
健ちゃんはそれから、まるで身内を自慢するかのように、お兄ちゃんのことを鼻高々に語った。
「あんなオールマイティにできる人、そういないしさ。メドレー辺りで、オリンピックも狙えるんじゃないかな」
「うそ。オリンピック?」
驚きのあまり、ぼくは一歩後ろに下がった。
お兄ちゃんの泳ぎの上手さは、プールに何回か見学に行っているからぼくも知っている。だけど、そんなにすごい「選手」だったなんて思いもしなかった。
たしかにフォームもきれいだ。それこそすいすい泳ぐイメージで、水しぶきが少ない。
夏休みにみんなで海水浴へ行ったときも、平泳ぎではあるけど、なめらかな泳ぎを披露していた。海はプールと違って、波という障害があるのに、それをものともしていなかった。
ただ、そのあとは、ぼくの命綱でもある浮き輪に意地悪ばっかりしていたけど。
「──危ないよ、人夢くん」
不意に腕を引っ張られて我に返った。
ぼくらの横を一台の車が通っていく。勇気くんの家のある小路へ入っていった。
ちらっと見えた運転席の人がこっちに向かって手を上げた。
健ちゃんが小声で「どうも」と返す。会釈もする。
「健ちゃんの知っている人?」
「うん」
健ちゃんはまだぼくの腕を掴んでいる。
「勇気のオヤジさんだよ」
「え?」
ぼくは、お父さんが迎えに来ると勇気くんが言っていたのを思い出した。
しっかりと見れなくて残念なのか、よかったのか。それでも、あの人が勇気くんのお父さんか……と思ったいたら、また健ちゃんに腕を引かれた。
「そんなことよりも人夢くん。あさってヒマ?」
「……あさって? え、なんで」
「ほら、前に言ってた埋め合わせ。あさってじゃだめかな」
そんな約束をほとんど忘れかけていたぼくはあっと声を上げた。
一緒に行こうと、健ちゃんが誘ってくれた先月の花火大会。なのにぼくは、ひどく一方的に断ってしまったんだ。
そのお詫びに、改めて二人で遊ぼうという話になっていた。
「いい? あさって」
「うん」
あさってはもともと予定がなかったと、心の中で、だれに言うわけもない言い訳をつけ足す。
「じゃあ、詳しいことはあした。電話するから」
それにもぼくが頷くと、健ちゃんは満面の笑みで去っていった。
その後ろ姿の向こう。さっきまで停まっていたあの車はもういなくなっていた。
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