二
勇気くんには小学生の妹さんや、もっと小さい弟くんがいる。だから、この時間なら、家族のだれかが帰ってきててもいいはずなんだ。
ぼくはどうするべきかと、二の足を踏んでいたら、ドアの向こうから犬の鳴き声が聞こえた。耳を澄ませば、家電の着信音もする。
「勇気くん。電話がかかってきてるみたいだよ」
ぼくは大声を出した。
急いで戻ってきた勇気くんは頷きながら、持ってきた鍵で玄関のドアを開けた。スペアキーをガレージに置いておく決まりだったのかもしれない。
早く、早くとぼくは足踏みをした。
勇気くんはなんとかスニーカーを脱ぐと、玄関の灯りを点けてから扉の向こうへ消えた。
着信音は途切れ、代わりに勇気くんの声がする。
ぼくは一息ついて、横へと目を向ける。きれいなお花が見えた。下駄箱の上に飾ってある。
足元には、大きな靴やちっちゃな靴、女の子の靴が並べられてある。
ぼくのところとはだいぶ違う風景がそこにはあった。
「帰ろう……」
いまさら大きな現実を前にして、ぼくはノックアウト寸前だった。
玄関のドアを開けようとしたら、後ろから勇気くんの声がかかった。
「ぼく、帰るね」
「ちょっと待って」
スニーカーを突っかけて勇気くんは近寄ると、すかさずぼくの手を掴んだ。
「待ってって、人夢」
ぼくはその手を振り切れなかった。でも、この場からは早く去らなきゃいけない気がして、強引にドアを開けようとした。
「ごめんね……」
「なんで謝るの」
「だって──」
ぼくが勇気くんを好きでいるのは本当はよくないことだ。先を考える間もなく勇気くんを好きになって、こうしてそばにいるけど、本当はいけないことなんだ。
その事実の根っこは、どんなに葉をむしっても伸びていく。ときどきこのお腹を掻き混ぜて、心臓をからめ捕る。
勇気くんが不意にぼくを抱き寄せた。
ちょっと湿っているシャツに、ぼくは額をくっつけた。
「いまはうまく言えないんだけど……」
「なんとなくわかる気はする」
「……」
「お前は優しくて、気づかい屋だから」
背中へ添えられた勇気くんの手の平のほうが優しい。けれど、この心ごと抱き寄せる力はいささか乱暴だった。
ぼくの小さな胸はそれだけで震えた。
「だけどな、人夢。こういうシチュエーションでの『ごめんね』は、反対の意味を持つことだってあるんだ。少なくともおれはそう取るから」
そう言って勇気くんはほのかに笑うと、ぼくの体を離した。
目を伏せながら顔を近づけてくる。
無意識のうちに迎え入れる形をとったとき、ぼくたちのあいだをなにかが通った。
「なんだよ。おい、ハナ」
「……ハナ?」
勇気くんの声を鼻先で感じながら目を下げると、茶色い犬が見えた。ぼくは思わず身を仰け反らせる。
「びっくりした……」
「ほら。ロクんちの人夢くんだぞ」
勇気くんはそう言いながらしゃがみ、犬を撫でくり回した。
ぼくはすぐに、健ちゃんから聞いていたロクちゃんの実家を思い出した。
「ねえ、勇気くん。ハナちゃんてもしかして」
「うん。ロクのお母さん」
「やっぱり」
それならとぼくもしゃがんで、ハナちゃんの体を撫でた。
「こんにちはハナちゃん。よろしくね」
「あのさ、人夢」
「うん」
「おれ、じつはこれから出かけないとなんだ」
しゃがんだまま、しばらく見つめ合った。
自分がおじゃま虫だったことにようやく気づいたぼくはさっと腰を上げた。
「ごめん。すぐ帰るねっ」
「いや、違うんだ。人夢」
素早く立ち上がった勇気くんが先にノブを掴んだ。
「さっき電話かかってきただろ。あれ、お母さんからで、ばあちゃんが入院したって」
ぼくは手を引っ込めて、目を見張った。勇気くんへ顔を向ける。
大したことはないんだと、勇気くんは慌てた感じで手を振った。
「いつものぎっくり腰だから」
「でも……」
「でさ、じいちゃんが一人になったから、お母さんがご飯作りに行ってて。妹や弟もそっちにいるし、おれにも来いってさ。お父さんがこれから迎えに行くって」
「それなら、なおさら早く帰らなきゃ」
しかし、ノブを掴んでいる大きな手は離れなかった。
「ほんとにごめん。……せっかくだったのに」
最後は呟くような声だった。勇気くんがドアを開けてくれる。
うん、またね。
ぼくはそうとしか返せず、足早に勇気くんの家をあとにした。
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