ブラザーフッド
もりひろ
前編
意中の人
一
だいぶ日も短くなった九月中旬のこと、ぼくにちょっとした新しい習慣ができた。
お兄さんたちのだれかが家にいて、すぐに帰宅しなくてもいい日は、放課後の教室でのんびりと読書にふける。ここなら、夢中になっているときに限って邪魔をするお兄ちゃんもいないし、ほどよく騒がしい遠くの声が、ふとした瞬間に心地いい空気を送ってくれる。
……なんて、もっともらしい理由を並べてみたけど、じつはこの読書の時間は単なる暇つぶし。彼が来るまでの。
ぼくは本を閉じると椅子を立ち上がった。窓へ目を向け、秋の夜長に拍車をかけるような曇天を見上げた。
雨はまだ降っていない。
でも、いまか、いまかと様子を探っているみたいだ。雲に流れがある。
「人夢、お待たせ」
そこへ、太陽にも引けを取らない声が響いた。
ぼくが振り返ってみると、机のあいだを、笑顔ですり抜けてくる勇気くんの姿があった。
それにしても、部活の終わりがいつもより早い気がする。
時計へ目をやったら、すかさず勇気くんが言った。
「ちょっと早めに終わるかってことになったんだ。雨も降ってきそうだしさ」
さっきまで読んでいた本をカバンへ突っ込み、ぼくはまた窓の外を見た。しなりがひどくなった枝の群れを見つけ、勇気くんにも視線を向ける。
「風が出てきたね」
「一気に荒れてきたな。おれたちもさっさと帰ろう。人夢は傘持ってきた?」
「うん」
「よかった~。てことで、万一降ってきたときはよろしく」
背負いカバンごと、勇気くんはぼくの背中を叩いた。
並んで、階段を下りる。
「勇気くん、傘持ってこなかったの?」
「うん。けさはちょっと急いでたからね。ほんと、おれってマヌケだよな」
勇気くんは目尻を下げて言った。下駄箱からスニーカーを出す指先が心なしか弾んでいる。
その理由にぼくが気づいたのは、大通りから小路へ入ったときだった。とうとう雨が降ってきて、ぼくが傘を開くと、口元を緩めた勇気くんが柄の上のほうを掴んだ。
「やっぱり相合い傘になっちゃったな」
「え?」
「ほら、人夢。もっとこっちにこないと濡れるよ」
陽が完全に落ちたからか、厚い雨雲の影響か。すっかり暗くなった辺りにぼくは目を配りながら勇気くんに身を寄せた。
肩を抱かれ、ちょっとしたスリルを味わう。
でも、人目を気にしている場合じゃなくなった。もちろん、勇気くんの思惑にも。
雨足が強くなってきたのだ。
「──じゃあ。おれはここで。ありがとな」
別れ道に差しかかり、勇気くんはあっさり傘から出ようとした。
その腕を慌てて掴んだ。
「なんだ」
「勇気くんちまで一緒に行くよ」
「そんな。いいよ」
「こんな大雨の中じゃ、いくら目と鼻の先でもびっしょりになっちゃう。それで勇気くんが風邪でも引いたら……」
そのとき強風が吹いた。突然のことに体勢を崩したぼくは、煽られた傘に体ごと持っていかれそうになった。
勇気くんがとっさに柄を取って、傘を立て直してくれる。
「大丈夫か?」
「う、うん。風が」
「あれだな。大した距離じゃないけど、一人で行かせるの不安になってきたな。ヘタしたら、学校まで押し戻されんじゃないの」
勇気くんがくすくす笑う。
ジョークだとわかっていたけれど、ぼくはついむきになって返した。
「そこまで情けないヤツじゃないよっ」
「でも、冗談抜きで人夢んち先に行こう。したら、帰りにこの傘貸して」
「だめ」
ぼくは無理やりの方向転換を図る。肩で、勇気くんの二の腕を押した。
「ちょ、人夢」
「ぼく、勇気くんちへ行ったことがないし」
もしかしたら、本気の本気を出せば、勇気くんはぼくの不意打ちもかわせたのかもしれない。
だって、またくすくすしているから。
「ほんとお前ってさ。変なとこ頑固だよな」
と言って、勇気くんはもう一度ぼくの肩を抱いた。
雨はだいぶ小康状態になった。
「……あれ?」
自分のところのガレージを覗いて、勇気くんは首を傾げた。ガレージの向こうには、グレーのお家の二階部分が顔を出している。
「どうしたの」
「車がない……」
シャッターが開いたままのガレージに車は一台もなかった。自転車が数台と、三輪車しかない。
「まだお仕事なんじゃないの?」
「お父さんはそうだけど、お母さんのはあるはずなんだ──」
話しながら勇気くんは玄関へ向かっていった。傘を預けっぱなしだったからぼくもあとに続く。
玄関先はひっそりとしていた。ここから見る限り家の中も灯りはなく、だれもいないような感じがした。
勇気くんは閉じた傘をぼくに渡し、ガレージのほうへ走っていった。
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