第32話 いなくなった黒騎士(3)
早朝、軽やかな足取りが草を踏み鳴らす。
湖から顔を出した青いドラゴンは嬉しそうに尾で水面を叩き、それを聞いたマーメイドはクスッと肩を上下させた。
「彼女が来たのかな」
そう呟きながら、ちゃぷんと湖に体を沈めて、裏側へ顔を出す。
そこでマーメイドが目にするのは、想像に違わない光景だ。
「マーメイドさん、新しいペレット持ってきました! っと、あはは、冷たいよ」
図体の割に態度の幼いアオドラゴンが、モンスター相談員であるリコラに擦り寄っている。
アオドラゴンとは、本来この地にいるべきではない海のモンスターだ。
モンスターがモンスターを飼育するという、ルールの穴を突く作戦を提案したリコラに、アオドラゴンはすっかり気を許している。
その証拠に、ドラゴン自らリコラの頬に顔を擦り寄せ、嬉しそうに太い尻尾を振ってみせた。
「こらこら、彼女が濡れてしまうだろう? リコラさん、有難う。お駄賃は、これで足りるかな」
マーメイドはやんわりとアオドラゴンを撫でてリコラから離すと、リコラの前で掌をそっと開いた。
リコラの眼下に煌めくのは、マーメイドの鱗だ。色が濃く硬いナーガのそれとは異なり、透き通るパールのような色彩を持っている。
「はい、もちろん! 今回も三か月分、お渡ししますね」
リコラは背負っていたリュックを下ろすと、そこから大きな袋を取り出した。三か月分とは言ったものの、育ち盛りのドラゴンではそれよりも早く消費してしまうだろう。
マーメイドに代わって袋を受け取ったアオドラゴンは、それを器用に木の枝へと引っ掛けた。ペレットは濡れると直ぐに駄目になってしまうので、湖からは少し離れた木陰で管理をしているようだ。
その木々の周辺や、草陰、湖の上、濡れた土。
リコラは周囲に目を配り、小さく息を吸い込んだ。
「あの、マーメイドさん……聞いてもいいですか……?」
リコラの瞳が、水の滴る青白い肌を辿る。もじもじと体の前で手を擦ると、マーメイドは察したように頷いた。
「残念だけれど、あの黒い騎士のことは何も分かっていないよ」
「そっ、そうですよね、ごめんなさいっ!」
黒騎士は、あの日いなくなったきり、一度も帰っていない。リコラが毎朝探し歩き、モンスターたちにも聞き込みを続けても、小さな足跡一つ見つからなかった。
リコラが頭を下げるのは、聞く立場でありながら縋る現状を恥じるからだ。そして、呆れないで欲しいと祈るからだった。
「かの黒騎士は、自ら離れたのだろう? 自分がいなくとも誰かが助けてくれると信じているのだろうね」
「そう、なんでしょうか……」
「少なくとも、私はそう思うよ。そして、諦めた方が良いんじゃないか、ともね。私も、そしてあの東の蛇でさえも安全だと、そう思い込んでしまったのだから」
マーメイドは優し気な声音で、淡々とリコラが望まない言葉を告げる。
本質は、人間を好まないモンスターだ。冷たい視線でリコラを見下ろし、長い爪を備えた手で丸みを帯びた頬を包んだ。
「人間は、モンスターよりも遥かに脆いというのにね」
ほんの少し、僅かに触れた爪の先端が、リコラの頬にちくんと刺さる。
リコラが思わず息を呑むと、マーメイドはぱっと手を放して微笑んだ。
「私にはリコラさんが必要だけれど。そうでない子もいると、忘れないようにね」
「あっ、は、はい……」
「さ、見送るよ。アオちゃんもお礼を言って」
マーメイドの呼びかけに、ドラゴンが大きな羽を広げてくるりと宙を舞う。そうして隣に並んだアオドラゴンは、マーメイドを真似て、手を左右に振って見せた。
種の異なる二人だが、その関係はまるで親子だ。事実ではなくても、彼らはそうあるのだろう。
リコラはお辞儀をしながら控えめに手を振り返し、小屋への帰路をとぼとぼと歩いた。
ダンジョンの管理者同然である中ボスですら見つけられないのだ、黒騎士を探す方法は、もはやないのかもしれない。
そもそも、ここにはもういないのかもしれない。
「……黒騎士さん」
寂しさが零れ落ちないように上を向いて歩く。
大丈夫、まだ作れる。リコラは天に向かってニッと笑顔をつくり、小屋へ向かって駆け出した。
「なあに、私の対応が不服だったの?」
リコラの背中が、アオドラゴンの優れた視力を持ってしても見えなくなった頃。
アオドラゴンの頭を撫でていたマーメイドがふっと息を吐いた。
「私はね、人間が好きではないの。いくら彼女の世話になったからといって、必要以上に彼女と関わり合う気はないよ」
温和な声で言い切られ、晴天よりも鮮やかな青尾が揺れるのをやめる。
鼻を引くつかせるドラゴンが睨みつけるは、何も無い、木々の下。
「やめなさい。私たちには関係のないことだよ。それに、あの荒くれナーガが黙っていないだろうしね」
ふふっと肩を揺らしたマーメイドに、アオドラゴンが不思議そうに顔を傾ける。若いドラゴンは東のボスを知らない。
それを分かっていてクスクスと笑むマーメイドは、木陰で揺れる緑に、冷えた視線を送った。
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