第30話 いなくなった黒騎士(1)

 照明の少ない質素な天井に、薄汚れてきたカーテン。メモ帳やペンで乱雑気味のカウンター。オウムモドキは壁の止まり木で片足立ちのまま眠り、すぐ横では黒騎士が膝を抱えている。


 ベッドで寝ころんだまま、リコラは重い瞼をぱちぱちと開いた。

 ぼんやりと残っている夢の記憶。懐かしいニオイ。

 嘗て、人間の世界しか知らなかったリコラが飛び込んだのは森のダンジョンだった。黒騎士との出会いは、忘れもしない人生の転機だ。


「私、あの頃からずっと……」


 傍らで眠っている黒騎士を見たリコラの頬が緩む。

 厳かな質感、高貴さのある光沢、強さを体現したかのような造形。


「いつも有難う、黒騎士さん」


 ベッドシーツの上に手を滑らせ、そっと黒騎士の肩鎧に触れる。

 指先に触れる冷たさが、胸に熱を灯す。嬉しいような恥ずかしいような、不思議な感覚だ。

 リコラは妙なくすぐったさに手を引っ込めると、布団をめくって足を下ろした。


 カーテンを開き、顔を洗い、身だしなみを整える。

 カウンターの椅子に腰掛けてメモ帳を整理しているうちにオウムモドキが動き出し、リュックサックを開いて木の実を頬張り始めた。


「あの、オーちゃん……、えと」


 リコラの呼びかけに振り返ったオウムモドキは、なかなか続かない次の言葉を待って動きを止めている。

 足で掴んだ木の実はそのまま、口に入れた実はさりげなく咀嚼した。


「ごめん、は変かな。傍にいてくれて有難う」


 昨日のことは、モンスターには関係のない人間同士の問題だ。

 後ろめたさと気恥ずかしさを抱えてリコラが俯くと、オウムモドキはぽろりと木の実を取り落とした。

 

「な、なんだよお。別にオレは何とも思ってねぇよ。こっぱずかしいこと言うんじゃねぇやい」


 ぷいっと顔を背けたオウムモドキは、勢いよく木の実を口に放り込む。

 ばさばさっと落ち着かず羽を打ち鳴らす姿に、リコラはふふっと肩を竦めて椅子に座り直した。


「私、サーシャのことは、ちゃんとハッキリ断るからね」

「ええっ! もったいねぇー、早まるなって。こんなチャンス二度とないってのに」

「ちょっと。別にそんな、断言することでもないでしょー?」


 指差しならぬ羽差しでリコラを嘲るオウムモドキに対し、リコラも空を切る拳を数回ぶつけてみせる。

 それからケラケラと笑い合うと、二人を繋ぐ絆の糸がピンッと強く伸びた。

 

「はい、ちょっと入るわよ~」


 そんな穏やかな時間を割いたのは、大人びた雰囲気を纏う女性の声。

 おかまいなしにドアを開けて入ってきたナーガは、下半身を小屋の外に残したまま不敵に微笑んだ。


「な、ナーガさん、どうしたんですかっ?」


 狼狽えついでに立ち上がったリコラの腕が、広げていたメモ帳を弾く。

 はらりと数枚落ちたメモ帳を気に掛ける余裕はない。予期せぬナーガの登場に、リコラは目を白黒させるばかりだ。


「ふふ、面白ーい話、聞いちゃったから」


 上機嫌らしいナーガの声が、子供のようなリズムを刻む。

 ズルズルと体を引きずってカウンターまで前進したナーガは、呆けたリコラの頬をつんっと指先で突いた。


「人間の男が会いに来たって?」


 ナーガの一言にリコラの口があんぐりと開く。そのリコラと同じような顔をつくったオウムモドキの口からは、ぽろりと丸い木の実が零れた。


「男がいるなんて聞いてないんだけど。可愛い顔して、なかなかやるんじゃない」

「ち、ちが、違いますっ!」

「私はてっきりー……、あぁ、そういえば、最近はあの恰好してないのね」


 ナーガは顔を緩やかに傾け、さらりとなびいた自身の髪に指を絡める。

 その指をリコラの方へ突き付けながら「あの花飾りも」と、質素なリコラの髪を指摘する。


 リコラが黒騎士から貰った花の髪飾りは、先日の事件で破壊してしまった。今、リコラの髪を結うのは赤いリボンだ。


「あ……壊し、ちゃったんです。黒騎士さんに貰った髪飾り」

「ふうん、もったいない。あんたに似合ってたのにね。で? そのナイトはショックで逃亡中ってこと」


 ナーガはリコラの背後に視線を送ると、面白がるように鋭い八重歯をチラつかせる。

 彼女の言う「ナイト」とは黒騎士のことだろう。


「え? 黒騎士さんなら、そこに……」


 振り返ったそこには、黒騎士がいつも通りに鎮座している。背を丸め、腕をだらりと床に垂らす様は、珍しく見る就寝の姿だ。

 その時、何故かリコラの胸にザワついたものが蠢いた。


「ねぇ、黒騎士さん」


 恐る恐る、確かめるように声をかける。

 今日、見ただろうか、あの赤い瞳が瞬くところを。カシャンと微かな音を立てて、身動ぎするところを。


「黒騎士さん? どうしてこっちを見てくれないの……?」

 

 再度呼びかけながら、リコラは居ても立っても居られず彼に駆け寄った。

 正面に膝をつき、黒騎士の腕を掴む。がしゃがしゃとリコラの手に合わせて揺れる腕。顔は深く下がったままだ。


 心臓がうるさく鳴り響き、目の前が真っ白になったように錯覚する。

 リコラがもう一度黒騎士の腕に触れ、「ねぇっ」と強く揺さぶっても、黒騎士はその重そうな頭を持ち上げようとしなかった。


「……いなくなっちゃった」


 リコラがぽつりと零す。

 それを拾ったナーガは、訝しげに眉をひそめてカウンターの奥を覗き込んだ。


「何、男が来たから負けを認めて逃げたってコト?」 


 呆然としたままのリコラに代わり、オウムモドキが「いや」と呟く。そのやけにハッキリとした口ぶりに、リコラは勢いよく顔を上げた。


「オーちゃん、何か知ってるのっ?」

「えっ! い、いや、しっ知らないっ!」


 慌ててパッと嘴を羽で覆ったオウムモドキへ、ナーガが眼を光らせる。加えてリコラの濡れた視線を受け、エメラルドの羽は情けなく畳まれた。


「こ……この前、リコラが襲われた事件があったろ? あの時、アイツ見たことないくらい落ち込んでたんだ。自分のせいで、リコラを危険な目に合わせたって」

「何、それ」

「そんで昨日あんな事があったから、気ィ遣って出てってくれたんじゃねぇかな。ほらリコラが……黒騎士のやつと一緒にいるとか豪語したから」


 ぽつりぽつりとオウムモドキが語るのは、彼しか聞いていなかった黒騎士の本音だ。

 リコラは「え?」と蚊の鳴くような声を震わせ、黒騎士の顔を覗き込んだ。今となっては、生気のない、ただの置物と化した鎧だ。


「私のせいって、こと?」


 リコラは絞り出すように呟いた。

 一つ、黒騎士を誘い出すためにリコラが利用されたこと。

 そしてもう一つは、リコラが人間であるサーシャではなく、黒騎士との時間を優先したがったこと。

 オウムモドキの言うことが真実なら、全て原因はリコラにある。


「私が黒騎士さんを困らせたの? 私に呆れて、いなくなっちゃった……?」

「お、おいおい、違うだろリコラ。あいつは、お前を思って」

「私を想うなら、一緒にいてくれるはずでしょ? だって、私、ほんとに黒騎士さんとずっと一緒に……っうう」


 リコラの震える声は、しゃくりあがって言葉にならなかった。

 黒騎士は、リコラがモンスター相談員を目指すきっかけだった。

 誇りある仕事だ。黒騎士がいなくなったとて、この仕事へかける想いは変わらない。

 それでも彼が、なくてはならない存在であることに変わりはなかった。


「大好きだって、ずっと言ってたぞ」


 ポツリと、らしくない声音でオウムモドキが告げる。

 リコラが顔を上げると、冠羽を垂れ下げたオウムモドキが寂しげな目でリコラを見つめていた。

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