第23話 マーメイドとドラゴン(1)

 天気は快晴、木漏れ日は眩しく、空気も澄んでいる。

 こんな日の朝は大忙しだ。狩られ続けて人員不足に陥ったモンスターの治癒に出向き、ごみ拾いを済ませてきたところ。

 リコラはようやく一仕事終え、ふーっとカウンターに突っ伏した。


「お疲れさん。にしてもよぉ、リコラも退屈になって来たろ。おんなじ相談ばっかで面白くねぇよなー」

「もう。面白いとか、面白くないとか、そんなことで括っちゃダメだよ。その子にとっては悩ましいことなんだから……、ふあ、ぁ、あくび出ちゃった」


 オウムモドキの不真面目発言にピシャリと返すも、リコラの腰は「く」の字から伸びない。

 変わり映えしないくせに忙しい時間というものが、一番億劫であるというのは事実だった。真新しい出会いや挑戦もない。肉体労働ゆえの疲労は、単にズシリと体を重くさせるばかりだ。


 自分の腕に頬を乗せて目を閉じたリコラへ、そのまま眠れと言わんばかりの睡魔がのしかかる。

 心地よい沈黙だ。小屋の外からは木々のざわめきやモンスターの囀りが聞こえてくる。


「……お前さん、まだ引きずってんのか?」


 遠くなりかけたリコラの意識の中に、オウムモドキのしゃがれた声が落ちる。

 ここ数日、聞いたような言葉は、部屋の隅で膝を抱える黒騎士へ向けられたものだ。


「ありゃ、リコラだって悪ぃんだ。お前さんが、ほら、背負い込むことじゃないって、な?」


 まるで子供をたしなめる言葉選び。滅多に聞けない棘の折れた声音。

 リコラは視界の向こうに見えるであろう二人の姿を想像し、「随分仲良くなったんだなぁ」と口元を緩めた。


 そんな心地よい空気を霧散させたのは、プルルッと鳴り出した電話だった。

 反射的にガバッと上半身を起こしたリコラに、オウムモドキが「うわあっ」と跳ねる。小屋へかかってくる電話は十中八九、仕事に関わるものだ。


 慌ててメモとペンを引き寄せたリコラは、受話器を耳に押し当て、お決まりの台詞「はい、モンスター相談所です」と告げた。


「……へ? あ、あれ、どうしたの?」


 いつもの電話なら、少し気取った声を崩さず、用件を必死に書き留めるリコラが見られるところ。

 しかし、リコラは緊張した肩の力をフッと抜くと、「うん、うん」と砕けた口調で返した。


「うん、分かった。調べてみる、有難う」


 そうして受話器を置いたリコラの腕の横へ、とんっとオウムモドキが降り立った。


「なんだ? 電話の相手は知り合いだったのか?」

「あ、うん。お父さんだった」


 意外な電話相手に、オウムモドキの目がぱちくりと丸く開かれる。

 日頃から娘が心配でしかたない父親は、あえて極力、自分から連絡を寄越すことはない。その反動で、こっそりと様子を見に来ていた時期もあったようだが、リコラにばれてからは我慢しているらしい。


「ほおー、ついに我慢の限界かぁ?」

「仕事の話だよ。いないはずのモンスターがこのダンジョンにいるらしいの。モンスター警察の方が保護しようとしても、暴れちゃってダメだったとかで……。とにかく、話を聞いてあげた方がいいかもしれないって」

「ダンテから情報が来るなんて珍しいじゃねぇか! 面白い話なんだなっ」


 小屋の中で相談に応えるというデスクワークに飽きていたオウムモドキは、我先にと羽を開き、飛び出す準備を始めている。

 リコラもそれに倣ってウエストポーチを巻き付けると、うずうずと口元を引き締めた。


「これから行くのは、西にある湖、マーメイドさんのところだよ」


 そう言ってドアを開くと、やけに眩しく感じる森へと歩き出す。

 遅れてリコラの横に並んだオウムモドキは上機嫌で羽を広げたかと思うと、リコラの肩の上で羽を休めた。


「マーメイドって……中ボスじゃねえか!」


 叫んだオウムモドキの冠羽がバッと逆立つ。リコラは思わずクスッと笑い、「そうだよ」と素早く頷いた。


「や、ヤベェのだったらどーすんだよ、黒騎士の奴置いてきて良かったのか? なんなら、中身だけ鞄に入れるってのもアリだったんじゃ」


 オウムモドキの思い付きに、リコラはうーんと眉根を寄せる。

 黒騎士の本体とも言えるモヤ状の存在を鎧から出す。これは、先日のリコラ誘拐事件においてダンテが使った移動手段だ。

 今までに経験している黒騎士の神出鬼没も、黒騎士が勝手に鎧を抜け出してリコラを尾行していたに違いない。

 しかし、リコラは「でもね」と首を振った。


「鎧を解くって、無防備になるってことだよ。本体の方だって、鎧の方だって、危険を伴うはずなの。鎧が壊されて戻れなくなったり、日を浴びすぎて消えちゃったり……」

「えっ、そーなのか?」

「し、知らないけどね。でもそうかもしれないでしょ? 中の黒騎士さんは、亡霊なんだから、たぶん」


 日々図鑑と睨み合っているリコラにしては、曖昧な情報だ。彼の希少さを物語るような少ない情報を耳にして尚、オウムモドキは不服そうに口を開いた。


「でも、アイツかわいそーだろ。いっつも留守番じゃあよお」

「……なんか、最近黒騎士さんと仲良いよね、何かあったの?」

「ケッ、仲良いのはリコラの方だろうが」


 そんなたわいのないやり取りの最中、ふと鼻をしっとりと爽やかな香りがくすぐった。

 自然と互いの顔から目を逸らして辺りを見渡すと、橙色の実がなる木が立ち並び、その奥に透き通った水色が広がっているのが見える。


 オウムモドキはクルルッと高い声を上げると、羽を数回バタバタと細かく動かした。好ましい香りなのだろう、柑橘類に近いさっぱりとした甘いニオイだ。


「オーちゃん、一応油断しないでよ」

「わ、分かってるよ」


 これから会うのは、モンスターの敵対心を緩和させるバッジが効かない中ボスだ。ナーガと会った時のように襲われる可能性もある。

 とはいえ、ナーガと有効な関係を築いた今、リコラの胸は不安より期待で弾んでいる。その証拠に、足取りは恐る恐るだが、立ち止まることなく湖に向かった。


「……何をしに来たの」


 湖まで残り数メートル。突然、ピリッと空気が震えた。

 響いたのは、柔らかく落ち着いた声音。女性のようで男性のような、聞き心地の良い音。

 それなのに、これ以上は進ませないというニュアンスがあった。


「わっ、私、モンスター相談員のリコラです。この辺りに、いるはずのない種類のモンスターがいると聞いて……話を聞きに来ました」


 ごくりと唾を呑み、ゆっくりと一歩を踏み出す。

 眼前には透き通った湖。勇者がやって来る表側とは、湖から顔を出す大きな岩と背の高い水草で区切られているようだ。

 観察するように目を凝らしていたリコラは、チャプンと水面が揺れたことに気付いた。岩壁に張り付く細腕。続いて、大きな尾びれがバシャンッと水を叩く。


「ぎゃあっ濡れる!」


 跳ね上がった水が、リコラとオウムモドキに襲いかかる。

 背に隠れたオウムモドキに代わって全身に水を受けたリコラは、姿を現したモンスターに目を奪われていた。


 岩に乗り上げたのは、ターコイズの髪と、角度によって輝きを変える青の鱗。上半身は麗しい男性の形をしたマーメイドがそこに鎮座していた。


「……綺麗」


 思わずそう呟いたリコラは、ハッと息を呑み、慌ててマーメイドから目を逸らした。

 差し込む日差しを浴びるのは、ほんの日焼けもしていない男性の素肌だ。線は細いが引き締まった上半身は、リコラが見慣れたものではない。


「あ、ああ、あの……、すみません、私その、話を聞きに来ただけなんです」

「いるはずのないモンスター、と言ったね。知っている、と言ったらどうする?」


 意外にも、返ってきたのはリコラの問いへの反応だ。

 リコラは思わずマーメイドへ戻してしまった目を宙へ漂わせ、ぽっぽと熱を帯びる頬を両手で挟んだ。


「どんなモンスターが、どうして迷い込んでしまったか、知っている限り教えて欲しいんです。その子にとって、最善の対処をしてあげたいから……」


 恐らく、このままでは理不尽な手段がとられてしまうだろう。

 間違ったエリアにいるモンスターは、本来あるべき場所へ連れ出される。理由を問わず、無理矢理にでも、だ。


「迷ったのではなく、もし、理由があって移動したのなら。それなら私は、話を聞いた上で方法を考えるべきだと思うんです」


 頬に滴る水と一緒に恥じらいも拭い取ったリコラは、マーメイドへ真っ直ぐ向き直った。


 貝殻で作られたネックレスが精巧な陶器のような肌を飾っている。濡れた肌は、非現実的なほどに美しく光りを纏う。

 意気込み虚しく、やはり目を泳がせたリコラは、ふふっと零れた笑みに釣られて視線を持ち上げた。


「知っていても、教えてあげない」


 宝石を埋め込んだかのよつに美しい青の瞳が、怪しげに浮いている。睨むでもなく、見下ろすでもなく、じっとリコラを見定めるかのよう。


 リコラもオウムモドキも、圧倒的な存在感と威圧感を前に凍り付いた。

 ナーガと対面した時と同じだ、やはり意志を持つ中ボスには容易く近付けない。


「……ど、どうしてですか? 私はただ、話を」

「お、おいリコラ、やめとけ」


 それでも、何もせず帰るわけにはいかない。その一心で、辛うじて摺り足の一歩を踏み出す。

 その瞬間、リコラの目の前に黒いモヤが立ち上った。瞬時に輪郭を象ったそれは、黒騎士へと姿を変える。


「え、黒騎士さんなんで……きゃあっ!」


 直後、ガンッガンッと激しい音が鎧を揺らした。リコラは咄嗟に耳を塞ぎ、鎧に打ち負けて地面に落ちたモノを視界にとらえる。

 鎧に衝撃を与えた正体は、水の塊だ。岩に腰掛けたマーメイドが、人差し指をリコラへと突き出している。


「ふうん……随分と優秀なオトモを連れているね。おかしいな、相談員は勇者がなれる職ではないはず。それはルール違反とは違うのかな」


 顎に手を当てて訝しむマーメイドへ、黒騎士が抜いた大剣を振り上げる。斬撃など届くはずのない距離。黒騎士なりの牽制だ。


 しかし、それに激怒するかのように、激しい水しぶきと共に何かが黒騎士に向かって飛びかかった。

 ガンッとぶつかる体。黒騎士の踵が押されて土を抉る。青い獣は大きな翼で風を巻き起こし、ガアァッと荒々しく咆哮を上げた。

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