第9話 ナーガの煩い(1)
ぽつり、ぽつり。小さな雫が穏やかな心音のように降り注ぐ。冷たい体に染み渡ったそれは、硬直した灰色の体に色彩を蘇らせる。
もぞりと微かな身動ぎ。続けて「ふぁあっ」と大欠伸が、緊張感を心地よく解した。
「イテテッ、あ、あれっ?」
「オーちゃん、大丈夫?」
目を覚ましたオウムモドキは、不思議そうにキョロキョロと辺りを見渡している。石化の間の記憶はないらしい。
リコラは安心させるようにニコリと微笑むと、逆立ったままの冠羽を掌で撫でながら元に戻した。
「オーちゃん、さっき格好良かったよ。まあ正直、無茶だなぁって思ったけど」
「うっ……だって、お前が……」
オウムモドキの声に覇気はない。もごもごと口籠もり、ついに言葉続かず、ぺちんと羽でリコラの腕を叩いた。
「頼りになんないモンスターで悪かったなっ」
「そんなこと言ってないよ。来てくれて有難う。置いていって、ごめんね?」
リコラは反応を確かめるように、指先をそっとオウムモドキの嘴に押しつけた。さりげなく上下させた後、今度は右頬に触れてから顔を掌で包み込む。
「……仕方ねえなぁ」
オウムモドキの呟きは、リコラに対するものだったのか、自分に言い聞かせるためのものだったのか。
体をぶるるっと小刻みに震わせたオウムモドキは、自身のふさふさ頭をリコラの掌へと押しつけた。これが「撫でろ」の合図だ。
その愛らしい仕草に頬を緩めたリコラは、手を止めずに「さっきの事なんだけど」と前置いた。
「持ち場を離れていたナーガさんね、私達ではどうにも出来ないと思う。あぁやって攻撃されたら、勇者じゃない私にはどうにも出来ないし」
「はぁ? じゃあやられっぱなしのつもりかよっ」
「うん。モンスター警察にお願いするよ」
そう言ったリコラの手元には電話番号が書かれたメモが置かれている。『モンスター警察・ユージンさん』それがリコラの視線の先にある名前だ。
オウムモドキは「あー、アイツ」と少し不服そうにしながらも、饒舌かつ文句の多いはずの口を素直に閉じた。それが最善だと身を以て実感していたからだろう。
モンスター警察といえば、ルールを守らない危険なモンスターに対する実力行使が許されている元勇者だ。魔王討伐を成功させた者だけがなれる職なので、実力は約束されたようなもの。
「お父さんに連絡してみたんだけど、中ボスのナーガがいなかったって、嘆いてる勇者も既に何人かいたみたいで」
「さっすが、アイツの情報網は大したもんだな」
「うん、だから、すぐに連絡しちゃおうと思ってる」
メモに書かれたユージンとは、モンスター警察に所属する男性の名前だ。父であるダンテに世話になったことがあるらしく、相談所を開いたリコラを気にかけてくれている。
だからきっと、何とかしてくれる。
リコラは一度視線を落とし、さりげなく首を左右に振った。情けないだとか、自分で何とかするんだ、とか。そんな身勝手な主張をしている場合ではないのだ。
ベッドの脇の隙間に、あの大きな体は戻ってきていない。それを気にして一度振り返ったリコラは、ハァッと溜め息をついた。
「ん? 鎧のヤツ、いないのか?」
「私達を逃がす隙を作ってくれたんだよ。まぁ……黒騎士さんなら全然、心配ないけどね」
数秒の沈黙のあと、しゃがれた声が「嘘つけ」とぼやく。
リコラは思わず自分の頬を引っ張り、眉を下げてヘラリと笑った。
まるで変わらない日常のワンシーン。それをモンスター警察への電話で区切ったリコラは、間もなくオウムモドキと小屋の外へ移動した。
最初こそ「お前は中で休んでろっ」とオウムモドキは苦言を呈したが、お互い様だというリコラの一蹴に言い返すことはなかった。
二人揃って、木々の合間、垣間見える白んだ空に目を向ける。
電話越しに聞いた「すぐに行くよ」という安心感に溢れた低い声。たった一言でリコラを安堵させた理由は明白だった。
リコラは知っているのだ。ユージンの言う「すぐ」とはまさに「すぐ」であるということを。
「リコラちゃん!」
上空から近付いて来る覇気のある声。ばさばさっと豪華な羽ばたきと、木々をかき分ける豪快な音を携えてやって来たのは、白い翼の生えた大型の虎だった。
その背中に跨がる男性が、リコラの目の前にすっと飛び降りる。軽く着地すると同時に帽子がくいと持ち上げられると、知った顔が露わになった。
「お疲れ様です、ユージンさん! 来てくださって有難うございますっ」
「いやいや、君の頼みなら急がないわけにはいかないだろう?」
この辺りでは珍しい黒い髪が、風を受けて爽やかになびいている。男らしく短い髪、太い眉に分厚い胸。紺色のかっちりとした制服が、力強さをより色濃く見せた。
「中ボス、ナーガの役割放棄だったね。あとは俺が何とかするから、君たちは戻っていていいよ」
低く柔和な声音も、心地よく耳に馴染む。
力の無いリコラたちを気遣う、有り難い提案だ。しかし、リコラは「それなんですけど」と躊躇いがちに口を挟んだ。
「その、私に案内させてください。大事な仲間を、置いてきてしまって」
「おい馬鹿リコラッ」
リコラが祈るように胸の前で手を合わせ、それを振り解くようにオウムモドキが羽を打ち付ける。
そんなテンポの良い二人のやり取りを見ていたユージンは、はっと目を開き、リコラの後ろに視線を移した。
「あの黒騎士がいないのか。あの子なら、このダンジョンのナーガに負けることはないと思うけど……。そっか、心配なんだね」
華奢なリコラを守るように、傍に寄り添っていた黒騎士。その存在感は、ユージンの記憶にもしっかりと刻まれていた。
リコラの父であるダンテが大事な愛娘をダンジョンに送り出したのも、彼の存在が大きい。
「分かった。それなら案内をお願いしようかな。大丈夫、俺とコイツがついてる」
こくりと頷いたユージンは、寄り添う白い毛並みに掌を乗せた。ぐるると唸るだけで空気が震える。
伝説級のモンスター、ソウヨクトラと呼称されるそれは、それなりの難易度を誇るこのダンジョンでさえ場違いな存在だった。
「リコラ、ぶっ倒れてもしんねぇぞ」
「大丈夫だって。今は元気出てきたからっ」
もの申したそうなオウムモドキだったが、ついに「分かったよ」とリコラの肩を離れた。
決して出任せではなく、リコラの体は幾分か軽くなっていた。あの場所へ向かって歩き出す一歩は軽快だ。
そのリコラの先導に従い、ユージンと白い虎が目を光らせて歩く。
舗装されない脇道に逸れ、草木をかき分け、タチイタチの生息地へ。すると、あのハスキーな女性の声はすぐに聞こえてきた。
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