第5話 実家

 カーテンの隙間から差し込む光の線が朝を教える。

 呆けた面持ちのまま起き上がったリコラは、寝癖で飛び跳ねた長い髪に指を入れた。かしかしと指先で頭をかいた後、んーっと天井に腕を伸ばす。


 平和な朝だ。ベッドが名残惜しそうに袖を引く。

 あと五分だけ。そんな誘惑に呑まれて、シーツに沈みかけたリコラは、その極上な感触にハッと目を開いた。

 ここは、いつもの小屋ではない。


「おはよう、お父さん!」


 リコラは素早く飛び起きると、ばたばたと階段を駆け下りた。

 明るい部屋に立つ、スラッとした華奢な背中。その人は、穏やかな性格を映した動きで振り返った。

 リコラと同じ、色素の薄い髪、目尻の下がった優しげな顔立ち。襟足を邪魔しないさっぱりとした髪型と縁の黒い眼鏡とが、清潔感を抱かせる。

 元勇者、そして現薬屋であるリコラの父親だ。


「おはよう、リコラ。もう少し寝ていても良かったんじゃないか?」

「だっ、ダメダメ、十時には窓口、開放したいんだからっ」


 リコラのきっぱりとした主張に、少し残念そうに眉を下げたダンテが、テーブルの上に朝食を並べていく。

 待っているだけでご飯が出てくる、魔法のような朝だ。


「顔を洗っておいで。そうしたら、一緒に朝食にしよう」

「はーい」


 言われるがまま、今度はぱたぱたと洗面所に移動する。

 ここはリコラの実家だ。昨日の午後に帰省したリコラは、買い出し含めた備品の補充を済ませ、一晩ここで過ごしている。

 父の「一日くらい……」という泣き言に絆されたのだ。


 平和と言えば聞こえが良いが、静かで何もない村。かといってド田舎というわけではなく、電気も水も通っている。

 働き口はいくらでもあるから、モンスターと関わる仕事をあえて選ぶものは少ないらしい。


「あ、オーちゃん、おはよう」

「おう、リコラも起きたのか。もうちっと、ゆっくり寝てりゃあいいのに」

「あは、それお父さんにも言われたよ」


 ばしゃばしゃと器用に羽を使って顔を洗っていたオウムモドキが、ブルルッと全身を震わせる。跳ねた水滴に「つめたいよっ」と笑ったリコラは、白いタオルをオウムモドキに放り投げた。


 物心ついた頃から、リコラはこうしてオウムモドキと同じ時を過ごしている。優しい父親のもと、一人っ子だったリコラにとっては、兄のようでもあり、弟のようでもあり、可愛いペットでもある。


「さ、朝ご飯行こっ」


 リコラの声に「おうっ」と返事も弾む。オウムモドキはばさっとリコラの肩に乗ると、上機嫌に体を左右に揺らした。


 父子の朝食は目玉焼きと食パン。オウムモドキには花の種やナッツ。

 三人での朝食を済ませると、リコラはリュックサックとキャスターのついたスーツケースに着替えと食料品、それから数種類のアイテムを詰め込んだ。

 数日間、家に帰らずに過ごすための準備だ。


「えぇっ、もう戻るのかい? お父さん、寂しくて泣きそう……」

「情けないこと言わないでよ。そんなことよりも、また薬見ていっていい?」


 しょんぼりと頭を下げる父からの返事を待たず、リコラは奥の部屋にある大きな棚に目をやった。

 リコラの小指ほどの小さな瓶がいくつも並んでいる。正面に貼られたシールには「体力」「精神」「万能」と簡素な単語。

 安価な上に効力抜群、父が調合した薬達だ。


「意外と必要になるんだよね。万能薬と、体力回復薬と」

「そ、そんなに危険だなんて、父さん聞いてないぞ」

「違う違う、私が使うんじゃなくって。間違って迷い込んじゃった勇者さんとか、勇者さんに酷い傷を負わされた子とか……。この前の、ジュカイオオカミさんみたいに、ね」


 丁寧に瓶を手に取り、吟味してから棚に戻す。

 基本的には冒険に挑む勇者のために作られる薬だ。ごくりと一飲みで使い切り。少し薬臭い透明な液体。


 リコラはそれらを流し見終えると、その隣で狭い棚を圧迫する大きな瓶を手に取った。

 高さだけで三倍はあるその瓶は、リコラの小さな手では掴みきれず、そっと両手で包み込む。


「これモンスター用だよね? これだけあれば暫く持つかなぁ」


 一瞬、父親が「しまった」と言いたげに目を見開いた。

 所謂業務用である大きな瓶は、一般には出回っていない代物だ。モンスター用の治療薬は、人間用のものよりも濃度が濃く、扱いも難しい。


「リコラ……そんなに、家に戻って来たくないっていうのか……」

「おいおいダンテ。情けねぇツラしてんじゃねぇよう。お前がそんなじゃ、オレも形無しじゃねぇか、勘弁してくれ」


 どんよりと暗い顔をした父親の肩に飛び乗ったオウムモドキが、ぺちぺちと羽でその寂しげな頭を叩いている。

 仲睦まじい二人、恐らく相性はバッチリだ。気弱なダンテをオウムモドキがさくっと一蹴する。


 そんな二人を横目に、リコラは持ってきたリュックサックを開いた。

 光る羽、サラサラの砂、大蛇の鱗にキノコの胞子。モンスター達から受け取る相談料は、直接的な金銭ではないが、相応に価値のあるものだ。それをテーブルの上に並べていくと、ダンテはやれやれと頭をかいた。


「娘が立派に一人立ちしたんだもんな……感慨深いというか、はぁ」

「はい、お父さん。これで交換、お願いします」

「ん。あぁなるほど、いろいろ揃えてきたね」


 一瞬にして、ダンテの目が商人のそれに変わる。

 リコラはモンスターの相談を受け、報酬として価値のある物品をもらう。それを実家である薬屋の商品と物々交換するのが常だ。

 食料も同じく、手に入れた素材を売り、手に入れた硬貨を以て購入する。それを続けて約三年、今まで極端に困窮したことはない。


 目的のものを全て手に入れたリコラは、満足げに重くなったリュックサックを背負い、スーツケースを手に持った。


「じゃあ、また行ってくるね」


 よいしょと重たいリュックを背中で跳ねさせ、年季の入った扉を押し開く。

 肩を落としたダンテは、名残惜しそうにリコラへと両腕を伸ばした。


「いってらっしゃいリコラ。さ、いってらっしゃいのハグを……」

「やだっ、恥ずかしい! オーちゃん、早く行こ!」


 すっかり色の白くなったダンテの腕をぺちんと叩き落とすと、リコラは軽やかに外へ飛び出した。

 控えめに手を振るダンテを背に、リコラはごろごろとスーツケースを転がして遠ざかる。


「ちょっと待ってリコラ!」


 そのリコラの背へと呼びかける声があった。

 馴染みのある若々しく活気溢れた声に、リコラは早速、足を止めて振り返る。


「おはよう! 久しぶりだね、サーシャ」


 空色髪の青年が、既に小さくなりつつあった隣の家から忙しなく跳び出してくる。

 隣の家に住む、幼馴染のサーシャだ。歳が近かったこともあり、家族ぐるみの付き合いがある。


「もっと体を休めに戻ってくればいいのに。ダンジョン、危ないんだろう?」


 上着を羽織りながら、パタパタとサンダルを踵で鳴らしたサーシャは、リコラの正面で呆れたような顔を浮かべた。

 少し背が伸びたのか、以前より見上げる形となった幼馴染に、リコラの顔もムッと膨れる。


「言うほど危なくないよ。心強い味方がいるし」

「味方って……」


 サーシャの人差し指がリコラの顔の横を指す。

 その先を視線で追ったオウムモドキは、リコラの肩の上でばたばたと暴れ出した。


「テメッ、オレ様を馬鹿にしやがったなっ? 相談所見に来てから言いやがれクソ坊主!」

「うわっ、ほら、図星だからって暴れるのは格好悪いよ」

「ンだとっ!」


 足をばたつかせ、指のように立てた羽をお返しとばかりにサーシャの顔に突きつける。リコラは「こらこら」とオウムモドキの嘴を掴むと、ぐるりと自分の方を向かせて額を小突いた。


「ごめんね、サーシャ。心配してくれて有難う、行ってくるね」

「う、うん……気をつけて」


 サーシャのぎこちない見送りを通り過ぎ、リコラは村の奥にある木で作られたゲートを開いた。隣の村に行くために作られた人工の道とは違い、無理矢理誰かがこじ開けたような狭さだ。

 足の踏み場も悪く、緑生い茂った空間は視界も悪い。

 先導するように肩を離れて先を進むオウムモドキは、時折振り返りながら、リコラが見失わないようにと大げさに羽ばたいた。


「オーちゃん、なんでいっつもサーシャと喧嘩するの?」

「喧嘩なもんか。アイツがつっかかってくっから相手してやってんだぞ。アイツ、オレが羨ましーんだ」

「何言ってんだか……。ああやって言い争うから、いっつも予定より遅くなっちゃう」


 胸元に下げた懐中時計を見下ろし、リコラははぁっと憂いた溜め息を吐く。

 こうして備品の補充のために村へと帰っている間、あの小屋を守っているのは黒騎士だけだ。


「一人でお留守番させて、待たせちゃ申し訳ないよ」

「そうかねえ。アイツはそんな事気にするタマじゃねぇと思うけど」


 心優しい黒騎士は、リコラの言うことに対して素直に頷いてくれる。勿論、リコラは彼の力量を不安視してなどいない。例えルールを守れないモンスターがいたとしても、一人で追い払ってくれるだろう。


「私が傍にいればともかく、もし野生だと間違えられたらと思うと心配で」

「んー……ま、そこは気にしたってしょうがないって」

「しょうがなくないよ。やっぱり急ごう、オーちゃん」


 リコラはオウムモドキを押し退けて、さくさくと獣道を進んだ。

 近道を走れば、十分程度で行ける距離。しかし、土のデコボコやぬかるみ、散乱する木の枝や小石が、スーツケースの行く道を阻む。


 見るからに筋肉の足りない細腕は震え、急く気持ちに反して思うように距離は進まなかった。

 心配そうに草陰から視線を送るモンスターは、相談所利用者だろう。手伝おうか、どうしようかと足踏みするモンスターに「大丈夫だよ」と空元気を向けて暫く。


 木々の隙間から差し込む日。それを受けて光る赤い屋根の小屋が見えてくる。同時にリコラの目に留まったのは、黒々とした大きな体。

 リコラは目を見開き、乳酸のたまった重い足を、ここ一番の力で回転させた。


「黒騎士さん!」


 ドアの前に立っている黒騎士は、紛うことなく、仲間である彼だ。

 飛びつく勢いで駆け寄ったリコラは、黒騎士の正面に立ち、その体を確かめるように腕やら腰やらにペタペタと触れた。


「どうして外で待っていたの? 何かあった?」


 リコラよりも遥かに高い位置にある兜が傾く。奥にある赤い瞳はリコラを見下ろし、ゆっくりと持ち上がった手がリコラの頭に乗せられた。


「もしかして、心配してくれたの? 少し、遅かったから?」


 問いかけに答える声はない。しかし、ぽんぽんと適度なリズムで頭を撫でられ、リコラは自然と破顔した。


「えへへ、有難う」


 照れくさいやら、申し訳ないやら。

 リコラはその想いに答えるように、分厚い腰に腕を回した。冷たい表面に頬を寄せ、ぐりぐりと顔を押しつける。

 すると、遅れて飛び込んできたオウムモドキが「あーっ」と指さし叫んだ。


「ダンテにはさせねぇくせに、薄情な娘だなぁっ」

「そっ、それとこれとは関係ないでしょ。黒騎士さん、中に戻ろ?」

「いーや、関係なくないね。今度帰った時、言いつけてやろ」


 疲れた顔ながら、口は達者なオウムモドキを尻目に、リコラは烏羽色の背を押して小屋の中に戻る。

 今となっては、実家よりも大事な場所だ。

 まずはスーツケースを壁に寄せ、リュックサックを床に下ろし、何事もないことを目視で確認する。

 それが済むと、リコラは「ただいまぁ」と脱力ついでにベッドへ飛び込んだ。


「おーい、リコラ。十時に開けんだろ?」


 そうこうしている間に、無情にも時間は過ぎていく。

 顔を上げたリコラの目に映るのは、じとっと文句言いたげな目つきのオウムモドキと、心配そうに赤い瞳を瞬かせる黒騎士。


「えへへ」


 リコラは顔を綻ばせると、ぱたぱたと足を揺らした。

 胸に灯る暖かな熱。それを逃がさないように手を小さな胸に押し当て、「準備しなきゃねっ」と言いながら枕に顔を埋めた。

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