第3話 いつの頃からか

 何かが視える。

 という人は、大抵、幼い頃から視えているのではないだろうか。長じてからは気配も感じなくなったという話は、よく聞く。

 私はといえば。

 実は、子供の頃に何かが視えたり聞こえたり、という試しは一度だってなかった。覚えていないだけかも知れないが、人一倍怖がりだったのだから、視ていたら覚えているはずだ。

 私はひどく怖がりのくせに、水木しげるの妖怪大百科で育ったせいか、やたらに怖い話が好きだ。妖怪から始まり神話、民話、都市伝説や怪談、奇談、落語、怪奇幻想小説の類いは大好物だし、月刊ムーだって毎月読んでいた。どちらかと言えば、オカルトが好きだ。怖い話に関しては節操がない。……そんなことはなかった。痛そうなのと気持ちが悪いのは苦手だ。

 いつも仄闇に怯え、襖の隙間は閉めて回り、夜はなまじ常夜灯があるとうっすら何かが見えるのではないかと恐ろしくて、よく頭まで布団を被って寝ていた。

 それなのに。何かを視るどころか、気配さえ感じたことは一度だってない。

 私はいつでも、他人に「あっちにいたよ」と目撃されるポジションだったのだ。成人してもなお「座敷童っぽいよね」と言われたくらいだが、それは足音と気配がまったくしないからだ。ちなみに一時期、オカルト好きな職場の先輩たちに呼ばれていたあだ名が「お菊」だった。髪の長さが毎日違うからだ。大きなウエーブのある癖毛の所為だ。お菊は伸びるだけで縮まないだろ。

 話が脱線した。

 いつからだろうか。私が「あれ、今の何だろ」と感じることが増えたのは。

 新卒で入った職場では、既に白シャツのおじさんが視えていたので(激務続きだがものすごく楽しい職場だった)成人後なことは確かである。とはいえ、それ以前に視た記憶はない。

 はっきりとしたきっかけは判らないし、何か特殊な能力が開花したとも思えないし思ってもいない。私に霊感などはないのだ。

 それでも、おや、と思った出来事が一つある。

 夢の話だ。

 ただの、夢である。寝ている間に見る、脳の情報整理だ。


 私は夢を見ることにだけは自信がある。

 いわゆる明晰夢、というやつだ。夢の中で「ああ、夢だ」と判る。判るだけでなく「前回はあっちに行って酷い目にあったから、今回はこっちにしておこう」とか「あー、怖いからもう起きよう」とか「昨日の続きを見るぞ」というやつも出来たりする。

 ちなみに眠りは酷く浅い。今でこそ倒れるように眠るが、まだ繊細だった頃は、新聞配達の足音や、地震の地鳴りで目覚めたりしていた。いびき歯ぎしり寝言のオンパレードの家族の中にあって、幼い頃の私に安眠などなかった。

 また話が反れた。

 夢の中はいつもは総天然色で、背景は大体建物の中だ。小学校と高校の校舎がミックスされている場合が多い。または木造のだだっ広い迷路のように入り組んだ建造物だが、その日は違った。

 真っ暗なのだ。天井も床もなく、そもそも風景すらない。足元さえもなく、私はただ、真っ暗な空間に立っていた。明かりもない漆黒なのに、自分の姿は見えていた。

 いや。自分だと思っただけで、あれは私ではない。私は私を、少し離れたところから眺めていた。私は小さな少年で、たぶん小学生くらいだ。私に横顔を見せて、黒の中にすっくと立っていた。

 次の瞬間、私の視界は少年の目線に変わる。私は私の前に立った誰かを見上げた。

 チョコレート色の厚手の三つ揃えの上着だったと思う。英国紳士、という出で立ちだ。確か帽子も被っていた。眼鏡をかけた、ごま塩の髪と髭の優しげな男性で、顔は良く覚えていない。

 彼は私の肩に手を置いて、こう言ったのだ。

「今まで君をずっと守ってきたけれど、もう行かなくてはならない。だが、君ならきっと大丈夫だ」

 私は訳も分からず、おじさんを見上げ続ける。哀しいとか、寂しいとか、そんなことは思わなかった気もする。ただ、涙が出てきた。どうして置いていくのだと、ひどく苦しく思ったから、やはり哀しかったのだろうか。顔が熱くなって、次々に涙が溢れて止まらなかった。

 男性は、私の前に、ただ立っていた。

 そうして、唐突に、私は自分が夥しい血にまみれていることに気がついた。腹から下が、燃えるように熱く、湿っぽかった。見下ろすと、真っ赤な血がだくだくと流れている。身じろぎすると着ている物が膚に張り付き、動きにくかった。

 そこで、はっと、私は気付いた。

 やってしまったかも知れない。子供の頃に覚えのある、おねしょの感覚にとても近い。

 私はそこでばちっと目を開けた。

 顔が熱くて、触ると頬が涙で濡れていた。今さっきまで泣いていたのか、息が荒かった。

 だが、それどころではないのだ。腰の辺りが、熱い。びっしょりと湿っている感覚がある。もう、二十歳は過ぎている。どうしよう。やってしまった。

 慌てて布団をまさぐったが、敷き布団は妙に熱せられていたものの、渇いている。汗で湿っている様子もない。腰の辺りに手を触れたが、やはり渇いている。下着もだ。だが。確かに、湿っている感覚がある。私は混乱した。

 混乱したまま、とりあえず、乾いた可能性も考慮に入れて、匂いまで嗅いでみた。問題ない。私は大人としての尊厳を守ったのだ。

 それでも、腹から下が湿っている感覚が拭えずに、しかたなく下着と夜着を替えて寝直した。もう、少年とおじさんの夢は見なかった。

 あの日、私の中から出ていった男性は、誰だったのだろう。私をずっと守っていたと言ったが、もう守ってはくれないのだろうか。そう思った。一体、彼は、私を何から守っていくれていたというのか。どこにどうして、かの人は行かなくてはならなかったのか。

 そうして、何故、おじさんが出て行った後の私は、小さな少年なのか。

 性別が違うじゃないか。


 しかし、あれこれを視たり感じたりするようになったのは、振り返ってみればその後からなのだ。

 少年の私は、闇の中にひとり取り残され、途方に暮れているに違いない。

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