第2話 夜の道

 何の変哲もない道である。朝は通勤通学の人が多く、夕方は買い物や帰宅の人々で賑わう。

 だが、エアポケットのように人通りが途絶える時間がある。

 通常の勤め人が帰宅し終え、残業続きの会社員が疲れ果てて戻るまでにはまだ早い時間帯。ほぼ人はいなくなり、寂しい限りだ。

 そんな中。

 私はイヤホンをして、好きな音楽を聴いて駅に向かおうとしていた。まだ両耳にイヤホンを入れていても怒られなかった頃の話だ。

 辺りは誰も歩いていない。目の前の大きな道路に車が行き来しているだけだが、それさえも疎らだった。信号が点滅している。次で行こう。

 のんびりと歩きながら、信号待ちをしている間に、音楽を再生しようとした。デバイスの電源を入れる。何を再生しようか、しばし悩む。

 イヤホンは耳に差し込まれたまま、無音である。

 目の前を、車が通り過ぎた。信号は、まだ赤だ。

 ふ、と隣に何かの気配がした。

「ハルちゃん」

 右耳のイヤホンの奥から、中年の女性の声が、私を呼んだ。

 まるでよく知った人が、私を呼ぶように。

 こめかみよりももっと近く。鼓膜のすぐ傍でした声に総身の毛がぞっと逆立ち、私は乱暴にイヤホンを耳から引き抜く。慌てて周りを見回すが、誰ひとり、視界の中にはいない。もちろん隣にだって誰も。

 私はぶらりとぶらさがったイヤホンを見下ろす。

 あれは、確かに、イヤホンの中から私を呼んだ。

 それ以来、私は、外でイヤホンを着けていない。


 同じ道。信号を越えて、件の紙工場を過ぎて直角に曲がると、坂がある。

 街灯の少ない、短い坂道だ。坂を下ったところから見上げると、大きな道路とその分離帯の木しか見えない。坂は駅へと続いている。

 片側はマンションの地下駐車場の出入り口で、もう片側は広めの花壇で目隠しをされた、どこかの企業の寮のようだ。

 それだから上の階には人がたくさん居るだろうに、灯りは通りまで届かず夜は酷く暗い。

 その坂道を、夜遅くに登っていた。秋の頃、遅番シフトの帰りで、月もない夜だった。

 坂の途中に誰か、いた。

 大通りの車の灯りに、黒い人影が浮かび上がる。背の高い細身の男性である。何やら両腕に、段ボール箱を抱えてこちらに向かっている。

 その時間に人が歩いていることが稀だったので、ほっとするのと同時に、少し警戒もした。駅から登ってくる人はいるが、この時刻に駅に向かう人には、ほぼ出会わない。それも、夜中に段ボール箱を抱いている。

 それに、何か、奇妙である。

 理由はすぐに分かった。

 近づくにつれて、男が妙に背が高く、しかもゆらゆら左右に揺れているのがわかった。その上、なかなか距離が縮まない。あれほどの背丈ならば、私よりも一足の幅は大きいはずだ。それなのに。立ち止まっているかのように、坂の途中から降りてこない。

 私は警戒した。

 酔っているのか。それとも。

 暗い道である。私は小柄だ。あのリーチで腕を伸ばされたら、勝てない気がする。周囲は建物があるが、声は届かないだろう。戻ろうか、足早に道の端を通り抜けようか。

 灯りは暗く、男の顔が判らない。表情が読めないのがまた、警戒心を煽る。

 じっと息を詰める。それから大きく吸い込む。腹に力を込めて、いざというときに備えて声が出せるように身構える。そうして相手を見上げた時に、私は思わず足を止めた。

 車道の灯りを背に受けて。

 男はゆらゆらと左右に揺れながら。坂道を後ろに向かって歩いていた。進んでいるのではない。後退るように、のんびりと、坂道を後ろ歩きに上がっているのだ。段ボール箱を腕に抱えて。ゆらゆらと揺れながら。

 う、っと怯んで、私は一息に坂を駆け上がった。猛然と駆け出しながら、何故戻らなかったのだと、後悔していた。自慢じゃないが、私は足が遅いのだ。だが、もう遅い。

 男の傍を、息を止めて走り抜ける。

 ゆらゆらと、細くて長い男が揺れる。

 私の靴が、地べたを蹴る。上までは、あと少し。男は何やら派手な色のランニングを着ていた。真夏ではない。何故オレンジ色のランニングなのだ。

 男の姿が、視界から消える。

「あはははははははははははは」

 唐突に、男が嗤った。

 暗い道で、ゆらゆらと揺れながら、段ボールを抱えて。

 だん、と私は最後の一足で登り切る。後ろなど、見られるわけがない。心臓が口から飛び出しそうだ。そのままの勢いで、角を曲がる。車が横を通り過ぎる。紙工場の壁が見える。まだ走る。車が通る。何台も。何台も。道路が明るい。私はようやく脚を緩める。

 心臓は、不自然なリズムで強弱を繰り返す。

 私は喉元から熱い息を吐き出しながら、恐る恐る後ろを振り返る。

 坂を上がりきった暗がりで、男がゆらりと揺れていた。

 頭の後ろで、両手を組んで、ゆらゆらと。

 私は後退る。

 手にしていた段ボール箱は、どうしたんだ。

 身を翻す。

 向こうから、犬を連れた男性が歩いてきた。ほっとする。足早に坂道から遠離る。

 擦れ違い様、犬が大きな声で、坂の方に向かって吠えた。

 あれが人でない何か奇妙なモノだったなら、どれほど私は安心するだろうか。


 ちなみにあれから、通りに入り口が面した小綺麗なマンションがもう一棟増えたのに加えて、社員寮の敷地付近にスマホゲームのモンスターか何かが出没するらしく、自転車に乗った男の人たちが頻繁に立ち止まるようになったその辺りは、物理的な暗さはあるものの、もはや恐ろしげな何かが出たりはしない。と思う。

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