並んで歩く
中村ハル
第1話 並んで歩く
視える、聞こえる、触れる、感じる。
頻繁にではない。本当にごく稀に、である。
とはいえ私に、霊感があるわけではない。というよりも、巷で言われている「霊感」というモノが実際的にはどういうモノであるのか今ひとつぴんときていないので、私のそれがそうなのかは判らない。
そして何より、私自身がそれが霊感というやつだとか、ましてや見えているものが霊だとは思っていない。私はそれを、白昼夢のようなモノだと思っている。脳の電気信号が見せる幻影、目を開けてみる夢。そしてそれは時として、現実との境を溶かして曖昧にする。明け方や夜中に遭遇するモノに関しては、起きているつもりで寝ているのだと思う。
それでも時に、ハッキリと覚醒しているのに、どうしたって説明のつかぬ事も起こるのだ。それが、もはや、脳のエラーだとは思えぬほどに、物理的刺激を伴って。
だがしかし。それならそれでいいと思う。なぜならあれらが、紛う事なき人間の仕業であるのならば、私はその方が、格段に恐ろしい。説明の付かぬ某かの方が、私にはずっと気が楽なのである。
そんな話を幾つかしよう。
明らかに夢であると思われるものもある。だが、正体が何であるのか分からぬモノもある。狐狸や妖怪の類いであるのならば、どれほど心が穏やかであるかは判らない。げに恐ろしきは、人なり、なんて陳腐な台詞が零れるほどに。
思い出せる限りの、一番はじめはいつだろう。
そもそも私は自分に関する記憶がいい加減な質なので、幼い頃のことはほとんど覚えていない。覚えていても、写真のように一枚きりの映像で、大体手元の何かだ。全体や詳細は覚えていないし、動画のように動いていることもほぼない。音に関しては皆無だ。
だから「おや?」と思った出来事は、以前に書いた「もう一人の私」の時かも知れない。
細かな話は「もう一人の私」に書いたので掻い摘まむが、小学校以降、私は兎角、見知らぬ人に間違えられた。そして、居もしない場所にいたと言われることが多かった。大学を卒業するまで、ひたすら私の魂は、私の身体から抜け出して、あちらこちらに遊び、私の友人たちを驚かせたり戸惑わせたりした。
社会人になってからは「あっちにいたよね?」と聞かれることはなくなった。
代わりにその頃によくあったのは、角を曲がったり振り向いたりした時に、背中越しの視界の端に、白いシャツを着た男性が見える、というものだ。仕事中が多かった。疲れていたのだ。心身共に。脳の側頭葉だかどこかに電極を差して刺激をすると、幽霊が見える、という学説がある。だからきっと、その辺が疲れていたのだ。
男性は、中肉中背の中年で、何時の季節も真っ白なシャツを着ている。それ以外は判らない。私の中に、おっさんが住んでいるのだ、きっと。びっくりして振り返っても、そこには誰も居ない。当然だ。そのうち、疲れの目安にした。おじさんが見える日は疲れている。とても善いバロメータだ。ちなみにおじさんは接客業を辞めてから見えなくなったが、数ヶ月前に数度見た。心身共に弱っている時だった。やっぱり疲れている時にしか見えない。
おじさんはさておき。
めっきり魂が抜け出ることがなくなったと思っていたある日の帰り道。辺りは街灯も疎らな暗い夜道だ。片側は大きな車道で、もう片側は倉庫を兼ねた小さな紙工場の建物である。うら寂しい道ではあるが、通い慣れた道だ。反対側は車の通りが多いので、物騒な感じはない。いつものように半ば気の抜けた感じで、私は歩いていた。目を瞑っていても歩けるほど、なじみのあるいつもの道を。
ふにゃふにゃと歩く私の視界の左側に、大きな硝子の嵌まったウインドウがあった。横目で見るともなしに眺めると、ふにゃふにゃと歩む私が並んで歩いているのが、なんとなく見えた。ほんほん、と何に納得したのか判らないが「私だな」と思って通り過ぎた。一歩、二歩、三歩。
ちょっと待て。
私は立ち止まる。あの建物に、硝子窓なんて、あっただろうか。まるで、ショーウインドウのように大きな一枚硝子の。
いやいやいやいや。あそこは、淡い灰色の外壁の紙工場の作業場だ。そんな大きな窓などあろうはずもない。ばっ、と私は振り返る。
明かり取りの小さな窓すらない、灰色ののっぺりとした壁が続いているだけだ。
でも、確かに、さっき。
私は私と連れだって、歩いていたではないか。着ている服の色だって、確かに同じだった。
もう一度戻って、壁に並ぶ。どうしたって、私の姿が映るわけがない。だって、見間違えようにも、影すら壁には投影されていないのだから。
きょとんと、私は壁を見て、前を見る。心臓が、心なしかドキドキとしている。
だがそれだけだ。アレが何だったのか、確かめる術が、何処にあるというのだろうか。
どうやらもうひとりの私は、未だに外に漏れ出して、気ままに歩いているらしい。私が私に会ったのは、後にも先にもあれ一度だ。
そして、しばらくこの道で、少しばかり不可思議な出来事が続くことになる。
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