遊女と巫女と雨女と4

 遊郭の格子の前に張り込んで一時間後。欠伸を噛み殺していた遊女が交代し、お天が現れた。


「あの子だ。謳姉、行くぞ」


 格子の前に近付いていくと、お天は詠に気付いた。


「あっ、昨夜のお兄さん。今日はどうされたのですか?」


「話したいことがあるんだ。部屋に入れてくれないか?」


「あの、そちらの方は?」


「姉の謳よ。汐江さんに会って事情を聞いたわ。私たちはあなたを助けたいの」


 お天は顔色をさっと変えた。


「……どうぞ。ですが、お姉さんが遊郭に入るのはまずいですね。申しわけありませんが、お姉さんは外で待たれてください」


「えー、私もついていきたかったなぁ。まあ、しょうがないか。私は茶屋で待っているわ。詠くん、くれぐれもエッチなことはしないように」


「しねぇよ! ほら、さっさと行った行った」


「あんっ、冷たい。また後でね」


 謳を手のひらであしらい、詠はお天に続いて階段を上った。

 昨夜と同じ廊下だったが、明るいうちに通る廊下には色気がなかった。やはり遊郭は夜にならなければ色っぽい雰囲気がなかった。遊郭には奇妙な静謐が充満しており、夜を待ちわびていらいらしていた。遊郭がいら立っているのではなく、遊女たちの漂わせる空気がぴりぴりしていた。

 部屋に通されて、早速詠は姫那家に至るまでの経緯を説明した。信じてもらえず相手にされないのではとも思っていたが、お天は全く疑わなかった。母に似て健気で、悪く言えばお人好しで、話は円滑に進んだ。


「お兄さん、助けてください……早く家に帰りたい……早くお母様に会いたい……」


 年に見合った子供らしく泣きじゃくるお天。今まで溜め込んで押し殺していた感情が爆発した。母に世話をかけまいと涙を見せたことがなかった彼女であったが、ついに込み上げてくるものにこらえられなくなった。

 詠は嗚咽を漏らすお天の肩に手を添えた。


「大丈夫、俺がなんとかするから」


 なんとかする――何も考えずに勢いでここまで来てしまったわけだが、もう後には引けない。なんとかすると言ってしまった以上、何もしないわけにはいかない。

 俺と謳姉が江戸時代にタイムスリップしたのは、姫那家の危機を救うためだったのかもしれない。もしそうなら、俺には何かができるはずだ。特殊能力が俺の中に秘められている、なんて都合のいいことがあるとは思えないけど、現にタイムスリップというあり得ないことが起こっている。ああ、もうどうにでもなれ。

 お天の嗚咽が治まり、詠は拳を握りしめた。


「お天ちゃん、遊郭の主のところまで案内してくれ」


「わかりました。お兄さんならきっと助けてくださると信じています」


 窓のそばに立つと、向かいの茶屋でお茶を飲んでいる謳が見えた。彼女も詠を見つけて手を振った。

 遊郭に入れなかったとはいえ、これからって時に呑気なものだな。なんにせよ、お天ちゃんを助けたら現実に帰れるかもしれない。ここで勇気を出せないでレンタルショップの彼女をデートに誘えるわけがない。今度こそ男を見せろ、俺。よし、腹を括ったぞ。

 詠とお天は階段を下りた。廊下の角をいくつも曲がり、風神が描かれた襖を開けて一本の広い渡り廊下に出た。渡り廊下は離れに続いていた。

 渡り廊下の両端には小さな池があり、その中では色とりどりの鯉が優雅に泳いでいる。白い玉砂利が敷き詰められた地面には松が植えられている。

 風流な渡り廊下を抜けたら、雷神の金襖の前に着いた。


「ここが主様の部屋です。主様、お天でございます。お客様が主様に会いたいとのことでお連れして参りました」


「通せ」


 遊郭の主は威厳のある低い声でそう言い放った。

 詠は緊張していたが、相手がどんな人間でも怯まずにずばっと言ってやるつもりだった。交渉材料がない分、強気な姿勢でいなければならなかった。

 お天が襖を開く。驕奢な部屋の中が露わとなり、視界が金色に早変わりする。

 部屋は金一色でまとめられていた。天井、壁、畳、家具といった部屋にあるあらゆるものが金色に輝いていた。

 金色の着物を着た遊郭の主は両腕に抱いていた遊女を部屋から追い出し、これまた金色の煙管に火をつけた。

 遊郭の主は詠の想像に反していた。

 座っているため全貌は測れないが、背は高くがたいがいい。鹿の角の刀かけには金色の刀がかけられていることから、元は侍だったのだろう。腕には着物の上からでもわかるほどの筋肉がついている。顔面の彫りは深く、切れ長の目は鋭い眼光を放っている。

 遊郭の主というのは大概が汚らしい小太りの男だと思っていた。どうやらそれはひどい偏見だったようだ。

 遊郭の主は犬でもあしらうようにお天に手の甲を向けて振った。にべもない扱いに、詠は眉をひそめた。


「お主も出ていけ。話の邪魔になる」


「いや、今日はお天ちゃんのことで話があるんだ。お天ちゃんがいても構わない」


「ほう。さてはお主、客人ではないな? お天の身内の者か?」


「身内……まあ、そうなるな。姫那家に所縁がある」


 遊郭の主の鼻から白煙が溢れる。


「なるほど。では、お主はお天を身請けしに来たというわけだ。金は用意できているのだろうな? 言っておくが、借金は並み大抵のことで返せるような金額ではないぞ」


「金はない。そもそも借金の利息が不当だ。汐江さんから金を搾り取れるだけ搾り取って姫那家を破滅に追いやるつもりなんだろう? あんたはお天ちゃんを誘拐したも同然だ。お天ちゃんを遊郭に入れてさらに借金を膨らませている。姫那家と関わりがある者としては、このまま黙って見過ごすわけにはいかない。お天ちゃんを返してもらおうか」


 詰め寄ると、遊郭の主を金歯を見せて笑った。


「嫌だと言ったらどうするのかね? 金がなければ何もできぬぞ?」


 詠は刀を抜いた。脅しのつもりだったのだが、遊郭の主は腹を抱えて笑い出した。


「何がおかしい?」


「はははははっ! 侍風情が、そんな刀でこの私を斬れるとでも思っているのか? いや、その刀では魚すら切れぬぞ。せいぜい切れて豆腐くらいのものだ」


「えっ?」


「その刀、刃がついておらぬではないか」


「まじで!?」


 遊郭の主の言う通り、刀には刃がついていなかった。そればかりか、切っ先も折れてしまって平らになっていた。

 これはこの刀の持ち主の工夫であった。悪漢さえも殺めないという信念を貫くため、刃をつけず切っ先を自ら折った。

 これでは包丁の役にも立たない。豆腐も綺麗には切れない。脅すどころか笑わせてしまうとは。刀を抜いたのは逆効果だったか。

 遊郭の主は立ち上がり、金色の鞘から金色の刀身を抜き出した。

 遊郭の主が細部まで金色にこだわれるのは金があり余っているからであった。それでも飽き足らず、借金という弱みを握って金を搾取するのが彼の楽しみであった。

 体格と威圧感に圧倒されて、詠は逃げ出したくなった。

 相手は元侍だ。甘すぎた。遊郭の主なんて刀で脅せば泣きついてくるおっさんだと思っていたのがまずかった。ちくしょう、こんなところで死んでたまるかよ。ああ、こんな時のために剣道でも習っていればよかった。

 刀を構えたものの、ひどく心許なかった。刀を持った侍に金属バットを持った素人が挑むようなものだ。勝てるはずがない。


「ミイラ取りがミイラになるというのはこのことよ。小僧、残念ながらお主が死んでも一文にもならんぞ。お天には死ぬまで働いてもらわねばなぁ」


「下衆が! どれほどの人間があんたに苦しめられてきたことか! 金の亡者め、恥を知れ!」


「戯言は死んでからいくらでもほざくがいい。死ねぃ!」


 金色の刀が振り下ろされる。目にも止まらぬ速さで飛んでくる刀身。足が竦んで身動ぎできない。避ける暇もない。

 あっ、これは死んだな――詠が死を悟った時だった。

 無意識のうちに、詠は肩を引いて振り抜かれる刀をさっと躱した。まさに紙一重だった。それから流れるように両腕が刀を振るい、遊郭の主の腹を撫でるように斬って刀身を鞘に収めた。いや、この刀には刃がないため、実際には撫でただけであった。

 遊郭の主はばたりと倒れた。一回りも背の高い大男が峰打ちで呆気なくやられてしまった。

 詠は唖然としていた。

 幼い頃はよく時代劇ごっこをしていたものだが、こんな芸当はできたためしがなかった。まるでマリオネットのごとく身体を操られたかのようだった。

 しかし、遊郭の主はすぐに意識を取り戻して顔を上げた。峰打ちなので大したダメージはないようだった。


「ま、まだやる気か? 次はないぞ? どうなっても知らないからな?」


 見苦しいはったりをかけると、遊郭の主は額を畳にこすりつけて土下座した。詠はいよいよわけがわからなくなって放心した。


「申しわけございませんでしたぁ! 私は金のために数多の罪を重ねてきました! あなた様が言われたように、借金を不当に増やして娘を半ば強引に遊郭に連れていきました! 私がやったことは誘拐と同じです! 私は卑劣な人間でございます! どうかこんな私をお許しください! もうこんなことは二度と致しません!」


「えっ? えっ? ど、どうなってんの?」


 遊郭の主はころりと態度を豹変させて平伏している。頭を上げる気配はない。

 この間に詠は混乱した脳内を一度整理してみることにした。

 斬り殺される寸前、俺は無意識の峰打ちで遊郭の主を倒した。すぐさま立ち上がったかと思うと態度が一変してこのおかしな状況に至る。遊郭の主が演技をしているという可能性は低い。有利な状況をわざわざ逆転させて俺を油断させる必要はない。じゃあ、遊郭の主は峰打ちで改心したってことか?

 釈然としなかったが、詠は一応交渉を持ちかけた。


「お天ちゃんを返してもらおう。それから、汐江さんから不当に奪った金を返してもらおうか」


「はい、お返しします! これまで犯してきた罪はきっちり償わせていただくつもりでございます! あなた様のおかげで目が覚めました! 本当にありがとうございました!」


「そ、そうか。それならいいんだけど……じゃあ、俺たちはこれで」


「ははぁ! 外までお見送り致します!」


 遊郭の主は金庫から大量の金貨が入った木箱を取り出して恭謹に手渡し、遊郭の玄関で腰を九十度折り曲げて詠とお天を見送った。


「……もうわけわかんねぇよっ!」


 何はともあれ、詠はお天と金を取り返すことに成功したのだった。

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御巫メランコリー 姐三 @ane_san

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