第二章 遊女と巫女と雨女と
遊女と巫女と雨女と1
旅館の壁に蝉が止まり、みんみんと騒がしく鳴いた。やけにアナログな目覚まし時計だった。
詠はのそのそ起き上がり、窓から通りを見下ろした。
漁師の往来が多い。どうやら漁師は港から魚を運んできているようである。通りの上の方に何かあるのだろうか。
そういえば、商店街があった場所には何があるんだろうな。後で行ってみることにしよう。
浴衣から着物と袴に着替えていると、謳が不機嫌そうに唸りながら寝返りを打った。浴衣は乱れてショーツと太ももが露出してしまっていた。
「謳姉、丸見えだぞ」
「何がよ……あー、頭痛がひどいわ……二日酔いね……」
「だから酒は駄目って言ったんだよ。さすがにもう懲りただろ」
「懲りました……うぅ、吐き気もするわ……」
「じゃあ、朝食はいらないのか?」
「うん……詠くんは食べてきて……私は吐いてから温泉に入ってくるわ……」
「わかった。気をつけてな、謳姉」
謳はふらふらと不安定な足取りで部屋を出ようとした。が、躓いてこけそうになり、詠は辛うじて彼女を支えた。
「謳姉、一人で大丈夫か?」
「大丈夫よ……あら? 詠くん、首に何か赤いものがついてるわよ。血……じゃないわね。何かしら」
首筋を撫でて赤く染まった指を確認し、詠ははっとした。
「く、口紅……た、多分、謳姉のだろ。酔っ払って抱きついてくるからついたんだよ」
「そっか。迷惑かけてごめんね」
「い、いいよ。昨日はいつもより大人しかったからさ」
そうだ、昨夜は遊郭に行ったんだった。お天ちゃんの琴を聞いて、首筋にキスされて、着物の帯を解いて……俺はパニックになって逃げ出した。はぁ、俺はとことん駄目な男だな。
謳が出ていった後、詠は腰に刀を差して宴会場で朝食を取った。白米、焼き鮭、味噌汁、たくあん。なんとも日本の朝食らしい朝食だった。
ちなみに、刀を差したのは単なるかっこつけのためだった。護身のためでもあったが、この町でいさかいが起こることはめったにないだろう、と思っていた。
遊郭の格子の前を通り過ぎる。今日はお天ではなく別の遊女が欠伸をしながら座っている。
詠は安堵し、通りを上っていった。
通りの坂を上り切ると、そこは魚市場だった。元の時代にあった商店街のアーケードはなく、もちろんレンタルショップもなかった。小屋がところ狭しと林立しており、籠や茣蓙には大量の魚が積み上げられていた。
魚の生臭さと潮の香りが立ち込める魚市場。旅館の女中たちが荷物持ちを連れて魚の買い出しに来ている。侍は小屋の七輪で串に刺した魚を焼いて食べている。
魚市場を抜けると、山へと続く道になった。元の時代ではこの山を越えたら隣町に着くのだが、恐らく江戸時代でも似たようなものだろう。この山の先にまた町があるはずだ。
詠は元の時代の地形を思い出しながら山を登っていた。
確か、この山の頂上には神社があった。その手前には滝があって、高校生になってからも謳と一緒によくそこで泳いだ。
夏の風物詩の鳴き声が耳をつんざく。少し歩いたら轟々たる滝の音が聞こえてくる。そもそもこの山は低く、隣町との境界線のような役割を果たしている。元の時代では道路が開通して自動車で簡単に山を越えられるが、江戸時代では道もほとんど整備されていないので移動に苦労する。
滝から発生する霧を浴びながら、詠は川の水を両手ですくって飲んだ。喉元を伝う水は、グラスの中で溶けた氷のようにひんやり冷たかった。その水で顔を洗うと、額に溜まっていた汗が流れてさっぱりした。
元の時代では夏休みだった。レンタルショップに通うことが日課になって、毎日のように彼女と顔を合わせていた。一日、と言うべきかはわからないが、一日でも彼女に会わないとなんだか心の中が空虚だった。意志とも異なる何かが彼女を求めていた。
そういえば、彼女おすすめの恋愛映画を見そびれてしまった。わけもわからないうちに夏祭りになって、花火の爆発で死んで、江戸時代の町にタイムスリップして、恋愛映画のことは頭の片隅に追いやられていた。
私、恋愛とは無縁だもの――そう言った彼女の言葉が脳裏で一閃した。
あれはどういう意味だったのだろうか。今さらながら何か意味深長であるような気がしてならない。
詠は思考がこんがらがって混乱しかけた脳を冷やしたくなった。アイスクリームでもあればよかったのだが、この時代の町にはなさそうだった。残念ながら川の水でも頭は冷やせそうになかった。
木陰で休憩した後、詠は頂上の神社へと向かった。登るごとに道は細くなっていき、岩がごつごつしてきた。この道を整備するのは生半可ではなかっただろう。
「はぁっ、はぁっ……運動不足の身体にはきついな……」
岩に足をかけては跳びを繰り返し、汗水垂らしてやっと頂上の神社に辿り着いた。
石製の鳥居をくぐり抜ける。境内には灯籠がいくつも佇立しており、手水舎、拝殿、本殿、社務所が神社らしくきちんと備わっている。社務所の隣には小さな家がある。神職の人間が住んでいるのだろう。境内はしんと静まり返って一見寂れているようにも思えるがよく手入れされている。多くの木に覆われているというのに、葉一枚すら落ちていない。
詠は境内の石柵に手をついて壮大な景色を見渡した。
ここからは海の堤防が見えた。この時代の堤防は、石を積載して作った簡易的なものだった。ちょうどあの辺りで花火が爆発して俺と謳姉は死んだ、と詠は視線で堤防を指し示した。
ミュージカル映画を見ながら昼寝をしていたら、いきなり夏祭り当日になっていた。そうかと思えば、今度は最後の花火で死んでしまった。よくよく考えると、俺は二度タイムスリップしている。一度目は未来に、二度目は過去に。恋愛映画をレンタルした日と夏祭り当日の間の記憶は一切ない。
謳いわくタイムスリップには必ず何か意味があるということだったが、この二度のタイムスリップにも何か意味があるというのだろうか? 仮に意味があるとして、一体誰がどういう意図で仕組んだことなのだろうか?
詠には皆目見当もつかなかった。
だが、簡単に推測を立てるとしたら、未来の人間によってなされたタイムスリップであることは確実だろう。未来ではそういう技術が発達していて、何者かの企みによってタイムスリップさせられたとしか考えられない。恐らくこの推測は的を射ているはずだ。これも推測の範疇でしかないのだが。
とにもかくにも、元の時代に戻るための手がかりを探さなければならない。このまま江戸時代で死ぬなんてまっぴらごめんだ。元の時代には後悔を残してきてしまった。早く帰って今度こそは彼女をデートに誘いたい。
詠は手水舎を無視して拝殿の前に立った。賽銭箱に銭を入れ、両手を合わせて目を瞑った。
詠は信心深い人間ではなかった。神社の作法には興味がなく、というよりは無知だった。
元の時代に戻れますように、と内心で願い、詠は瞼を開いた。
手水舎で顔を洗って帰ろうとしたところで、社務所の隣に建っている家の方から草履で土を踏む足音が聞こえてきた。
白衣、緋袴を身にまとった少女――竹箒を片手に現れたのは巫女だった。
この巫女の容姿は詠の脳裏に鮮烈に焼きついた。それほどまでに彼女の美貌は衝撃的だった。
年は詠と同じくらいだろうか。それでいて、彼女の容姿には大人っぽさと子供っぽさの相反する二面性が両立している。
毛先が腰の辺りで揺れている黒髪は紙で結われており、顔立ちは端整。肌は白粉を塗ったかのように白く、みずみずしい唇は薄紅色に彩られている。手は小さく、五指はしなやかな枝のように細い。萎れては持ち上がる長いまつ毛、緩やかな振り子のようにたゆたう髪、草履の底で微かに土の表面を擦る慎ましい足運び。
彼女の一挙一動に、詠の心は虜になっていた。瞬きをすることも視線を逸らすこともできなかった。この瞬間、詠は彼女にひたすら見惚れていた。
これが一目惚れなのだろうか。レンタルショップの彼女に初めて会った時と似た感覚であった。じれったいような、もどかしいような、歯痒いような、いら立ちのような――そんな感覚であった。
なんだかレンタルショップの彼女に申しわけない気分になった。あえて言うなら、浮気をする時の罪悪感に酷似していた。
しかし、急にそれがおかしく思えた。
彼女とはデートもしたことがないのに、どうして浮気だなんて感じたんだろう。俺の勝手な妄想か? 俺の中で彼女は特別な存在になっていたのか? それならなおさらどうして彼女を夏祭りに誘えなかった? 浮気だと感じることこそ厚かましいというものだ。
巫女は境内をぐるりと一周して入念に地面を見回した。葉が落ちていないか調べているのだろう。
巫女は太陽の光を浴びた燦爛たる瞳で詠を射抜いた。それから、愛嬌よく微笑んでみせた。
「こんにちは。何かご用?」
澄徹な声音が鼓膜に優しく浸透する。いかにも年相応の少女らしい声だ。
「い、いや、お参りに来ただけだから。綺麗な神社だな。君が掃除しているのか?」
「うん。ここは神聖な場所だから葉一枚落ちていてはならない、とお父様が。夏はいいけれど、冬は落ち葉がたくさん飛んでくるから大変だよ」
「へぇ、君のお父さんは潔癖なんだな」
意外にもこの少女には親近感があった。巫女は寡黙だというイメージがあったのだが、彼女とは話しやすかった。
この少女は神主の娘のようだった。仕草の一つ一つが淑やかで、神の御前に立っても失礼のない純潔を孕んでいた。
「お侍さん」
「えっ、お侍さん?」
お侍さん、と呼ばれて思わず聞き返してしまったが、帯刀していたのだった。勘違いされてもおかしくはなかった。
「見かけたことがないのだけど、お侍さんはどこから来たの? 遠いところから来たの?」
「いや、生まれも育ちもこの町だ」
「そうなんだ。じゃあ、この神社に来るのは初めて?」
「初詣に来たことが――いや、初めてだよ。君はここに住んでいるのか?」
「うん。生まれてからずっとここにいるんだ。お父様から町に下りることを禁止されているの。巫女だから穢れがつかないようにしないといけないんだって。町には穢れがあるのかなぁ」
穢れ――これが意味しているのは男性のことだろう。恐らく少女の父は彼女の美貌に惹かれる男性を危惧して町に下りることを禁止したのだ。確かに、彼女の貞淑を守るにはそれが最善の方法かもしれない。
だが、山の上に籠って暮らすのはどんなに退屈だろう、と思った。竹箒を片手に落ち葉と奮闘する日常には耐えられそうもなかった。
町を見下ろす少女の瞳には憧憬が宿っていた。大人びた殻の中に純真無垢な好奇心が秘められていた。
「そろそろ戻らないと。これから神楽の練習があるんだ。お侍さん、よかったらまたお参りに来てね」
「ああ、また来るよ」
清淑な足運びで帰っていく少女の後ろ姿を見つめながら、詠は神楽という言葉に引っかかっていた。
神楽を練習しているということは、まだ夏祭りは終わっていないのか。元の時代のこの神社では夏祭りに巫女が神楽を舞うと小耳に挟んだ。もしこの時代でもそうなら、俺と謳姉は夏祭りの前にタイムスリップしたことになる。
「今年二度目の夏祭り、か。今度は死なないといいんだけど」
手水舎で汗を流してから、詠は町へと下りていった。少女の名前を聞きそびれたことが悔やまれたが、彼は引き返さなかった。
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