夏来たりなば死遠からじ5

 部屋に戻ると、女中が布団を敷いてくれていた。幸いにも謳はその上に寝転んで熟睡してしまった。

 詠は夜風に当たるついでに通りを散歩することにした。

 夜の通りは昼よりも人気がなかったが、旅館や遊郭のあちこちから雅やかな弦楽器の音色や陽気な歌声が聞こえてくる。通りの上と下には常夜灯が設置されており、華めく町をより明るく照らしている。遊郭の格子の中には相変わらず遊女が座っていて、通りすがる男性を誘惑するように甘い声音で話しかけている。

 現代には遊郭がない。類似した風俗はあるが、この独特な高貴な雰囲気は醸し出せない。

 元の時代に戻ったら二度と営業している遊郭は見られない。俺は今、貴重なものを見ているのかもしれない。

 そんなことを思いながら遊郭の前を横切ろうとすると、格子の中の遊女に「そこのお兄さん」と声をかけられた。

 遊女は若い娘だった。まだ顔にあどけなさが残っていることから、詠より少し年下くらいに思われた。


「お兄さん、わっちと遊んでいきませんか? お兄さんなら特別に初回はただにして差し上げますよ」


「えっと、ごめん。遊郭は初めてなんだ。遊郭のことは全然知らなくて」


「平気でございますよ。わっちが簡単に説明致しますので、安心してお入りになってくださいな」


 詠は迷った。

 遊郭に興味はある。女の子と関わり合いになりたいという欲望も相まって、遊郭がひどく魅力的に映える。

 実のところ、詠は遊郭をよく思っていなかった。遊女というものは金で股を開く下品な女性と決めてかかっていたのだが、この格子の中で婉美に座っている遊女からは対照的に上品な印象を受けた。

 初回がただとはいえ、正しい手順を踏まずに不純な行為に及ぶのは憚られる。背徳が背筋を這い上がってくる。


「わっち、最近琴が弾けるようになったんです。お兄さんにもお聞かせしとうございます」


 格子に指を絡めて前のめりになる遊女。詠は必死な彼女に憐憫を感じた。彼女の口から紡ぎ出されるのは虚偽の言葉ばかりだった。彼女は本心を隠して遊女を演じていた。詠の中で彼女と謳が重なった。

 俺は優柔不断だな。だからレンタルショップの彼女をデートに誘えなかったんだ。時には思い切ってみるのもありかもしれない。

 また例の開き直りで遊郭に足を踏み入れる覚悟ができた。


「じゃあ、せっかくだから聞いていこうかな」


「ありがとうございます。では、ご案内致します」


 遊女は喜びと悲しみが混じったような複雑な表情でそう言った。

 この時、詠の脳内には遊女とあんなことやこんなことをしようといういかがわしい思考はさらさらなかった。彼は純粋に遊郭の雰囲気を楽しもうとしていた。

 玄関で下駄を脱ぎ、裸足で中に上がる。遊女について階段を上り、窓の開けられた廊下を突っ切る。

 弦楽器の音色、はしゃぐ黄色い声、呻くような嬌声――遊郭にはそんなものが充満していた。

 浴室からはうっすらと湯煙が漏れていた。短くなった行灯の蝋燭を取り替える遊女。マッチの火を消すと、天井の闇に煙が吸い込まれていった。窓際に腰かけて煙管を吸っている遊女もいた。女性と煙は退廃的だった。

 アーチ状の赤漆の橋を渡る。一階では三味線に合わせて客と遊女が何やらゲームのようなものをしている。酒を飲む者もいれば、囲碁を打ったり将棋を指したりする者もいる。

 まるでここが別世界のように思えた。夢の中で夢を見ているような――そんな感覚であった。

 遊女は静やかな部屋の前で立ち止まった。中に通されると、香のきつい匂いがした。窓は開け放たれており、そこから外を眺めていると涼しい夜風が入ってきた。微かに潮の香りが混じっていた。

 部屋の中は空虚で、衣桁にかけられた着物と丁寧に畳まれた三つ布団があるくらいだった。遊女は押入から琴を取り出して正座した。詠は彼女に続いて座布団の上に胡坐をかいた。


「いい部屋だな。ここの生活は華やかそうだ」


 すると、遊女は俯き加減になって表情を曇らせた。


「お兄さんが想像されているほどいいものではありませんよ」


「軽はずみなことを言ったかな? もしそうだったら謝るよ」


「謝らないでくださいまし。自己紹介が遅れました。わっちはお天と申します」


「お天ちゃんか。年はいくつ?」


「十五でございます」


「現代だったら完全にアウトだよなぁ……」


「はい?」


「いや、なんでもない。じゃあ、早速だけど琴を聞かせてもらおうかな」


「はい。まだ習いたてですので、ゆったりした曲を演奏させていただきます」


 お天が琴の弦を爪で弾き、詠は瞼を閉じた。

 お天が演奏しているのは子守り歌。そのゆったりとした曲調を耳にしているうちに、詠は段々とうつらうつらしてきた。まどろみの海で船を漕ぎ、夢のまた夢の中で夢を見ようとしていた。行き着く先は誰にもわからなかった。

 二、三曲ほど演奏したらお天は琴の演奏をやめた。詠が座ったまま居眠りしていることに気付いたからだ。


「お兄さん、お兄さん」


 肩を揺さぶられて詠ははっと目を覚ました。


「ごめん。途中で寝ちゃった」


「いいのですよ。わっちが演奏したのは子守り歌ですから。お兄さんはおねむのようですね。では、布団を敷きますね」


「いや、あの……」


 詠は腰を浮かせたが、お天はさっさと押入に琴をしまって三つ布団を用意した。

 この展開はまずい。琴を聞いて帰るつもりだったけど、どうやらそういうわけにもいかないらしい。ここが遊郭であることをすっかり忘れていた。

 詠の胸板に手を添えて、お天は首筋に口付けした。詠は情けなく両手を彷徨させて困惑することしかできなかった。


「お、お天ちゃん、俺は――」


「しー、何も言わないでくださいまし。さあ、帯を解いてくださいな」


「お、帯を解く……」


「はい。どうぞ」


 差し出された帯の先を怖る怖る掴む。固唾を飲む。恥じらいに視線を伏せるお天。脳内が思考の羅列でぐちゃぐちゃになる。歯車の間に思考の欠片は挟まり、判断が鈍る。

 もうどうにでもなれ――詠は性欲と好奇心に負けて帯を引いた。が、彼にこれ以上の行動に踏み切る勇気はなかった。


「ごめん、お天ちゃん! やっぱり俺にはできない!」


「お、お兄さん? どこへ行かれるのですか?」


 突如として重苦しい背徳が忍び寄ってきて、詠はお天の裸が露わになる前に部屋を飛び出した。遊郭は迷路のように複雑な構造になっていたが、彼は無我夢中で外を目指して廊下を駆け回った。

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