夏来たりなば死遠からじ4
旅館の浴衣に着替えて、詠と謳は宴会場に足を運んだ。
宴会場は広闊で、女中に酌をさせながらどんちゃん騒ぎしている集団もあった。二人は女中の案内で漆の塗られた膳の前に座った。
膳の上には既に料理が並べられていた。白米、鰻の蒲焼き、鯛の吸い物、冷奴、切り干し大根、白菜の漬け物。そこに女中が淹れてくれた冷たい麦茶が加わった。現代と比較すると量が少なく質素に思えるが、江戸時代の夕食としては豪華なのだろう。
二人は合掌し、箸を手にした。
「夕食を作らない日なんて久しぶりだわ。たまにはこういう食事も悪くないわね」
「そうだな。なんか謳姉の料理が恋しくなってきた」
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない。なんだかんだ言って詠くんは私の料理が好きなのね。文句ばかり言われるからがっかりして落ち込む日もあったのよ」
「それはごめん。でも、ちゃんと感謝してるからさ」
「うふふっ、詠くんには可愛げがあるから嫌いになれないわ」
白米を口に運ぶ。謳の炊き加減のちょうどよさに気付かされる。鰻の蒲焼きは香ばしいが、たれがかかっていてもどこか味気ない。鯛の吸い物も彼女が作るものに舌が慣れているせいか違和感がある。
詠は母の料理の味を忘れてしまっていた。謳の料理を毎日食べているうちに、母の料理の味は塗り潰されてしまっていた。母の料理は正月くらいしか食べられないため、謳の料理がいわゆるお袋の味になり代わっていた。
謳はお茶をすすり、何かを確認するようにウインクした。詠はその意味がわからず、「何?」と聞き返した。
「ちょっと物足りないわ」
「じゃあ、何か追加で注文したら?」
「ううん、料理はいいのよ。気分転換がしたいっていうか……詠くん、お酒を飲んでもいい?」
「駄目」
詠は即答した。
しかし、謳は不満に頬をむっと膨らませた。
「なんでなんで? お願いよぉ! 今日くらいいいじゃない!」
「駄目だってば。謳姉、酒に弱いし酒癖が悪いだろ。酔っ払ったら手に負えないんだよ」
謳がクリスマスに酒を飲んだ時、酩酊して衣服を脱いでからが大変だった。下着のままリビングと廊下を行き来したり、謎の踊りを披露したり、ねちねち愚痴をこぼしたり、カーペットの上に胃の中身をぶちまけたり。とてもではないが両親に見せられるような状態ではなかった。それ以来、詠の許可がなければ酒を飲めないようになったのだ。
普段は禁酒に従順な謳だが、今日はやけに諦めが悪かった。
「一杯だけ! おちょこ一杯分だけだから!」
「なんでそんなに酒が飲みたいんだよ?」
「酔いたい気分なの。実はね、今度旅館に泊まったら温泉に入ってお酒を飲もうって決めていたのよ。私だって一日くらい羽を伸ばしたいわ」
詠は両腕を組み、謳の飲酒を許可するべきか否か沈思黙考した。
謳姉の希望を叶えてあげたいのは山々だけど、謳姉が羽を伸ばしたらどんな災難が降りかかってくるかわからない。酔った時点で抑制が効かなくなるのは目に見えている。
飲酒を許可制にしたクリスマス以降、一度だけ謳の押しに負けて首を縦に振ったことがある。
謳の誕生日のことだ。缶ビール一本でやめる約束をしていたのだが、肝心の彼女はその一本ですっかり酔ってしまった。冷蔵庫を漁って滅茶苦茶にした後、コンビニまで爆走して何本も酒を買ってきた。あとは想像に難くないだろう。その翌日はトイレに籠って吐き続ける羽目になった。これに懲りて彼女も禁酒を誓ったのだった。
だが、仕事と家事に抑圧されてきた謳は定期的にストレスを解消する必要があった。詠は精神的な気晴らしの糧だったが、やはり肉体的な息抜きも必要だった。
詠は白米と鰻の蒲焼きを一緒に口にし、よく咀嚼してから嚥下した。
「本当におちょこ一杯だけなんだな?」
釘を刺すと、謳は目を輝かせて自信たっぷりにこくこくと頷いてみせた。
「約束するわ! ありがと、詠くん! すみませーん!」
お茶のお代わりを注ぐのに奔走している女中を呼び止めた謳は、この旅館で最も高い日本酒を注文した。女中は目の色を変えて一層忙しなく宴会場から出ていった。
間もなくして、女中ではなく女将らしき人物がとっくりとおちょこを恭しく運んできた。あからさまに媚びるような対応で、「お酌を致しましょうか?」という女将の申し出を謳は無下に断った。
「はぁ、久しぶりのお酒。詠くん、せっかくだからお酌してくれない?」
「さっきの女将さんにしてもらえばよかったのに」
「詠くんがよかったのよ。詠くんがお酌してくれたらお酒がもっと美味しくなるもの」
「わかった。謳姉、いつもお疲れ様」
詠は慎重にとっくりを傾け、謳の手中のおちょこに濁りのない透明な液体を注いだ。念には念を入れて若干少なめにしておいた。
おちょこをぐいと呷った謳。綻んだ表情を見ると、酒を飲ませてよかったのかもしれない、と思った。
「はぁー、お風呂上がりの一杯は格別ねぇ」
「謳姉は酒が苦手なのに好きだよな」
「まあね。お酒は大人の楽しみなのよ。詠くんもあと二年したら飲めるわ。その時は一緒に飲もうね」
「気は進まないけどな」
残りの料理を片付けている間にも、謳の頬は林檎のようにほんのり赤く色付いていた。一杯でも酔いが回ってきたようだ。
段々心配になってきた。おちょこ一杯でもまずかったのかもしれない。
「謳姉?」
「…………」
返事がない。もう完全に酔ってしまったようだ。
謳が注視していたのはとっくりだった。詠はすかさずそれを取り上げようと手を伸ばした。
しかし、詠の手が届く前に謳はとっくりを引っ掴んで開いた口の上で逆さにした。
「はぁ、やってくれたな……」
ぎりぎり間に合わなかった。やはり一杯でも酒を飲ませるべきではなかった。
憂鬱になる詠を横目に、謳は浴衣をはだけさせて彼に寄りかかった。
「うぅ、喉が焼ける……なんか熱くなってきたわぁ……詠くんの肌、冷たくて気持ちいい……」
「ちょっ、浴衣に手を入れるなって! どさくさに紛れて腹筋を撫でるな! くすぐったいだろ!」
「だって、熱いんだもん。ねぇ、裸になっていい?」
「駄目に決まってんだろ。謳姉、部屋に戻るぞ」
「えー、もっと飲みたいー。女将さーん、もう一本ー」
「駄目だって。ほら、戻るぞ」
「やーん、浴衣が脱げちゃう」
「お、おい、気をつけろって。謳姉、しっかり立って」
謳の肩から浴衣がするする落ち出したので、詠は慌ててずれた浴衣を直した。
謳姉と一緒に酒を飲む時は椅子に縛りつけておいた方がいいかもしれない。酔っ払ったら危険極まりない。
酩酊した謳は制御できない暴れ馬だ。後には荒らし回られた凄惨な光景が残る。台風の過ぎ去った朝のように。
詠は千鳥足の謳を支えて部屋に連れて戻った。
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