夏来たりなば死遠からじ3

 茶屋で抹茶をすすりながら団子を食べた後、詠と謳は通りを往復して旅館を吟味した。

 二人は通りの数ある旅館の中でも特に規模が大きいものを選んだ。現在、彼らは女中に案内されて部屋でくつろいでいた。

 豪奢な建物に反して部屋は現実のものと比べて素朴だったが、居心地はこの時代のぼろい家よりも断然素晴らしかった。

 団子で満腹になり、二人は座布団を枕代わりにして横たわっていた。


「ねぇ、詠くん、一緒に温泉に行かない?」


 謳の誘いに、詠は眉をひそめた。

 お決まりのパターンだ。どうせ混浴なんだろう。江戸時代の温泉は混浴だったとテレビでやっていた。謳姉もそれを承知の上で誘ってきたとしか思えない。

 詠としては、姉と一緒に風呂に入るのはもう勘弁してほしかった。

 いくら我慢強い俺でも理性には限界がある。理性のたがが外れたら、俺も謳姉を溺愛するシスコンになりかねない。


「俺は後で入るから、謳姉は先に入ってきなよ」


「嫌。私は詠くんと一緒に入りたいの。詠くんが入るまで私も入らないから」


「……変態め」


「なんとでも言いなさい! 私は詠くんの裸が見たいのよ! 詠くんの肉体美を堪能したいのよ! ねぇ、いいでしょ!」


「いいわけないだろ!」


「じゃあ、極力じろじろ見ないようにするから! お願い! 混浴なんてめったにない機会じゃない! たまには姉弟で裸の付き合いっていうのも悪くないでしょ!」


 必死だなぁ、と呆れ返ってもはや感心してしまうほどだった。

 いや、今はそれどころじゃない。早く謳姉の暴走を止めないと歯止めが利かなくなる。

 我に返った詠は嘆息した。


「謳姉の裸の付き合いって言葉の響きは危険なんだよ。謳姉には前科があるから油断できない」


「前科って何?」


「背中を流すとか言って変なところを触ろうとしただろ」


「あ、あれは手が勝手に……」


 急に歯切れが悪くなった謳。こういう攻防にはめっぽう強い彼女に隙を作ることができた。この隙を突けば今後の展開を変えられるかもしれない。


「謳姉、俺たちは姉弟なんだぞ? 俺は弟として謳姉のことが好きだ。これからも弟として謳姉のことを好きでいたい。だから、そういうのはもうなしにしよう」


「詠くん……わかったわ。下心があったことは認めましょう」


「わかってくれたならよかった」


 意外にも謳は素直だった。

 だが、ブラコン気味、いや、もうブラコンと認定しよう。ブラコンの謳が詠のことでそう簡単に引き下がるはずもなかった。


「詠くんは恥ずかしがりだものね」


「……はぁ?」


「私、タイムスリップしてからがっつきすぎだったかも。ごめんなさい、これからは節度をわきまえるわ。ってことで、一緒に温泉に行こう」


「はぁ……」


 詠は額に手を当てた。


「全然わかってねぇっ! 謳姉、わかってないみたいだからもう一回言うわ。全然わかってねぇよっ!」


 謳はブラコン気味からブラコンに認定されるどころか、間髪入れずに筋金入りのブラコンに昇格してしまった。


「今日という今日は何がなんでも詠くんと一緒にお風呂に入るんだから! 日頃の我慢をここで解放させてもらうわ!」


 こうなってしまったらもう止められない。謳という暴走列車に詠は連れ去られてしまった。


「謳姉、頼むからわかってくれよ……」


「わかってるわよ。エッチなことがないならいいんでしょ? ねぇ? 背中を流してあげるから。ねぇ?」


「あー、もう、わかったわかった……」


「やった!」


「全く、謳姉には敵わないな」


 結局、半ば諦める形で了承してしまった。

 謳は鼻歌混じりにステップを踏んだ。上機嫌な彼女とは対照的に、詠はどうしても気が進まなかった。

 時間帯が早いこともあり、客はまだそう多くない。これなら温泉も貸切かもしれない。

 脱衣所は男性と女性で薄っぺらい衝立に仕切られていた。その間には番台があり、険しい顔付きの中年の女性が脱衣所を監視していた。幸いなことに、看板には堅苦しい文字でタオルを着用して湯に浸かってもいいという旨が書かれていた。謳は詠に感付かれないように小さく舌打ちした。


「またね、詠くん。あっ、逃げたら承知しないわよ?」


「……はい」


 ふと思いついた退路はすぐさま塞がれてしまった。後が怖いので、詠は流れに身を任せることにした。もうどうにでもなれと捨て鉢になった。

 番台の視線に躊躇いが生じたが、詠は思い切って着物と袴を脱いだ。それから、腰にタオルを固く巻きつけた。

 脱衣所には誰もいなかった。どの籠にも着物は入っておらず、少なくとも詠の他に入浴中の男性はいないようだった。

 暖簾をくぐると、謳はにやにやしながら浴槽の縁に腰かけて両足を湯に泳がせていた。


「ああ、なんて肉体美! 長身痩躯に薄い筋肉! 詠くんの身体が好き! 詠くんが好き!」


「まさか謳姉がここまで変態だったとは……もしかして、謳姉って、筋肉フェチだったのか?」


「そうですけど何か? 詠くんの筋肉は私の理想なの! 私、細マッチョが好きなの! 特にイケメンの細マッチョが!」


「そういうことだったのか……」


 謳がブラコンになった最大の原因がようやく判明した。

 どうやら俺は謳姉の理想にちょうどはまっていたらしい。風呂上がりの半裸に舐めるような視線を感じてはいたが、謳姉が筋肉フェチだったとは思いもしなかった。

 母性愛と筋肉フェチが混ざり合った結果、謳という変態が生まれた。彼女はそれを抑制し続けてきた。

 江戸時代の町にタイムスリップして、謳は解放的になりつつあった。

 詠の親代わりとしてしっかり者の姉を演じてきた謳だったが、ここではその必要はない。ここでは仕事と家事に抑圧されることもない。ここでは欲望に忠実になっても責任を取らなくてもいい。

 謳は自由を取り違えていた。タイムスリップという日常の変化の引き金が、彼女の思考を惑わせていた。

 詠は椅子に座らされた。桶で湯を背中にかけられると、えも言われぬ快感が電流のように背筋を走った。

 シャワーがない時代だ。少々不便ではあるが、こうして背中を流してもらう分にはそんなことは気にならなかった。ただ座っていればいいのだ。

 謳が手拭いで背中をこする。石鹸は備えられていなかったため、水のみで身体を洗っていく。それでも通りを歩いてかいた汗と潮風で付着した塩は流されていき、ぬるま湯に溶かされるような心地よさが身体を伝う。


「どう? 気持ちいい?」


「ああ、いいよ」


「夏の温泉もいいものね。旅館に泊まるのなんていつぶりかしらね」


「何年か前の年末、二人で通りの旅館の温泉に入って夕食を食べて帰ったよな。近所に旅館があったら泊まらなくてもいいからなぁ」


 思い返せば、行事という行事を謳と過ごしてきた。両親が帰ってくる正月を除いて、二人でひっそり行事を楽しんでいた。夏祭りがその例だ。

 すると、謳の手がつるりと腹筋を撫でた。


「あっ、手が滑った」


「…………」


 一度は見逃すと、今度は両手が腹筋と胸筋を撫でた。到底滑ったとは思えないくらいいやらしい手つきだ。


「あっ、また手が滑った。てへっ」


「…………」


 二度も見逃した。さすがに次はないと思っていたが、今度は背中に柔らかい感触が押し当てられた。展開上、それが何かは容易に想像がついた。

 胸は高鳴っていたが、詠はあくまで平静を装ってじっとしていた。


「……謳姉、それも手が滑ったのか?」


「今度は身体が滑っちゃった。あんっ、滑る滑る!」


「謳姉、エロいのはなしって言ったよな?」


「もう、固いこと言わないでよ。お触りくらいいいじゃない」


「駄目だ! ちょっとくらい欲望を抑えてくれよ!」


「無理よぉ。詠くんの裸を見たら我慢できなくなっちゃった。この筋肉に触るな、なんて生殺しよぉ」


「はぁ、どうせこんなことだろうと思ったよ……」


 そんなやり取りをしている間にも、謳は詠の背中に胸を押しつけながら筋肉を弄っていた。薄いタオル越しの胸は言うまでもなく甘美で、理性という鎖を獣が噛みちぎろうとしていた。性に敏感な年頃の少年の理性は柔らかな感触ごときで瓦解しかけていた。

 詠は纏わりつく手を振り解くように勢いよく立ち上がった。


「もう十分だ。今度は俺が謳姉の背中を流してやるよ」


「あら、気が利くわね。ちなみに、私はお触りありよ?」


「しねぇよ」


「ふふふっ、照れちゃって可愛い」


 椅子に尻を載せ、謳は身体に巻いていたタオルを外した。

 濡れた黒髪の間から覗く細いうなじ、華奢な肩、はりのある白い背中、婀娜な曲線を描く尻。詠の視線は謳の後ろ姿に釘付けだった。


「うふふっ、詠くーん? 手が止まってるわよー。もしかして、私の身体に見惚れちゃったのかなー?」


 図星だった。詠はばつが悪くなって手拭いで背中を強めにこすった。


「あんっ、もっと優しくして。女の子の肌はデリケートなのよ」


「もう女の子って年でもないだろ」


「ひどいー! 私、まだぴちぴちの二十三歳よ?」


「年を取るのは案外早いぞ。まあ、謳姉が老けるなんて想像もつかないけど」


「年を取るなんて嫌ねぇ。女の子はいつまでも若くいたいもの」


「あくまでまだ女の子なんだな……」


 滑らかな肌を手拭いでこすっていると、石膏像を磨いているという錯覚に陥った。実際、謳の背中はそう言っても過言ではないくらい美しかった。


「よし、終わったぞ」


「前もお願いしようかしら。お触りしてもいいのよ?」


「だからしねぇよ。前は自分でできるだろ」


 謳の頭の上に手拭いを載せ、詠は湯に浸かった。途端に緊張に力んでいた身体が弛緩した。

 謳は詠の隣に座り、肩を寄せた。

 今日は謳姉のブラコンぶりがいつも以上に炸裂している。筋肉フェチの暴露、変態的な言動。もはやしっかり者の謳姉の面影はない。

 でも、と詠は思った。

 俺は謳姉の全てを知らなかった。十八年も謳姉と一緒にいて全てを知っているつもりだったけど、それは思い上がりだった。現に俺は謳姉の筋肉フェチを知らなかった。謳姉は今まで欲望を我慢してきたんだと思う。俺や両親にしっかり者のレッテルを貼られて、しっかり者を演じざるを得なかったんだと思う。謳姉は俺よりずっと我慢強かったんだ。

 すると、詠は腕をぐいぐい引かれた。その際に柔らかな胸が当たり、心臓がびくりと飛び跳ねた。


「な、なんだよ」


「露天風呂があるじゃん。行ってみよ」


 岩盤の浴槽から出て、二人は暖簾に隔てられた露天風呂に移動した。

 露天風呂からは海を臨むことができた。見慣れていたが、露天風呂から見下ろす橙色の海は新鮮だった。

 浴槽の縁に腰を落ち着けると、ふと感傷的な気分になった。


「俺たち、元の時代に帰れるのかねぇ。今のところ手がかりはゼロ、このままここで死ぬって可能性もあるよな」


 謳は唇をきゅっと結んで表情を引き締めた。


「早く家に帰りたいわ。この時代に私たちの居場所はないもの」


「居場所、か」


 居場所――詠はこの言葉の意味を深く捉えていた。

 謳姉の言う通り、この時代に俺の居場所はない。でも、元の時代に戻ったとして、俺に居場所はあるんだろうか? 何もかも中途半端に生きてきた俺には、元の時代にも居場所はないのかもしれない。

 詠はレンタルショップの彼女に思いを馳せた。

 過去の俺というべきだろうか、未来の俺というべきだろうか。まあ、どっちでもいい。いずれにせよ、俺は夏祭りに彼女を誘えなかった。たった一言が言えなかった。記憶にはないけど、俺はまた中途半端なまま夏祭りを終えてしまった。俺の恋はまた宙ぶらりんになってしまった。

 小学生の時分、詠には好きな子がいた。その子はクラスの中でも人気者で、男子からも女子からもよく慕われていた。詠は卒業する前に彼女に思いの丈を告白しようと決意していたが、結局は勇気が出なくて何も言えないまま恋は成就しなかった。中学生の時分にも同じようなほろ苦い経験をした。

 元の時代に戻れなかったら、彼女に告白することはできない。いや、元の時代に戻れたとして告白できるのか? 今まで恋をしたのは同級生だったけど、今回は年上だ。しかも、レンタルショップの店員ときている。客と店員の関係から抜け出すのは一筋縄ではいかない。中途半端に生きてきた俺のことだ、またどうせ直前になって断念するだろう。

 湯をすくい、顔面をはたく。湯煙と共に飛沫が上がり、魚のように跳ねて再び水と同化する。水面に波紋が広がり、やがて儚く消える。


「謳姉、そろそろ上がろうか」


「そうね。のぼせちゃいそう」


 最後に見慣れた海を一瞥すると、なんだか情けなくなった。詠はわざと溜め息と夕日の中に彼女を置き忘れていった。

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