夏来たりなば死遠からじ2

 意識が覚醒すると、詠と謳は堤防の上に立っていた。二人が状況を飲み込むにはしばらく時間を要した。

 繋がれた手。籠目の甚平、芙蓉の花柄の浴衣。無傷の身体。

 詠と謳は顔を見合わせた。互いに言わんとしていることは目配せで理解できた。が、先ほど起きた出来事は到底理解できそうになかった。


「謳姉、俺たち……死ななかった?」


「し、死んだわね。あれは確実に死んだわ」


「夢じゃないよな?」


「わからないわ。でも、夢にしてはリアルすぎると思わない?」


「そうだよな。っていうか、ここはどこだ?」


 二人は後ろを振り返った。そこに屋台はなく、見慣れた道の駅もなかった。そこにあったのは、大規模な二階建ての旅館だった。見覚えのない旅館で、玄関の前にはなんとも風流な庭が構えられていた。


「もしかして、ここは死後の世界なんじゃないかしら」


「死後の世界、ねぇ」


「ほら、私たち、死んじゃったじゃない」


 謳の言葉には妙に合点がいった。死んで幽霊になったのではなかろうか、と詠は考えたのだ。


「それにしても、俺たちが住んでいた町に似てるな。町並みが古風な気もするけど」


「そうね。ねぇ、ちょっと歩いてみましょうよ。それから、途中で何か食べよ。私、お腹空いちゃった」


「呑気すぎだろ……まあ、それもそうだな。死後の世界ですることなんて何もないしな。ところで、謳姉、そろそろ手を離してもいいか?」


「駄目。死後の世界ではぐれたらどうなっちゃうかわからないでしょ」


「はぁ、子供かよ……死後の世界にも迷子センターがあったらいいんだけど」


「失礼ね! どちらかといえば詠くんの方が子供でしょ! 私は詠くんのお姉ちゃんですぅ!」


 詠は謳の内心を察して手を繋いだまま歩くことにした。

 謳姉が不安になるのも頷ける。俺だってわけがわからないうちに死んでしまって不安だ。このまま永久にこの世界を彷徨わなければならないのだと思うと気が遠くなる。

 堤防と旅館の間の道路はアスファルトで舗装されていなかった。ただの土が敷き詰められているくらいで、下駄で歩いているとくるぶしが砂埃で汚れた。

 今のところ人気はない。ひたすら閑寂で、ノイズのような波のさざめきが鼓膜を振動させている。どうやら季節は夏のようである。現実の世界より暑くはないが、耳を澄ませると遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 すると、いきなり謳が「あっ!」と声を上げた。


「どうかした、謳姉?」


「そういえば、私たちの家はどうなったのかしら? もしかしたら、旅館になってたりして」


「あー、あり得るかもな。とりあえず、立ち寄ってみるか」


 堤防に沿って進んでいると、現実の世界で愛染家があった場所に家が見えてきた。

 どうやら旅館ではないようである。ただの民家らしかったが、愛染家の面影はない。屋根の瓦は一部が剥がれ落ち、壁には目立つ穴がいくつも開いている。


「これが私たちの家……なわけないわよね。誰かいたら厄介だし、ひとまず通りの方に行ってみましょうか」


 謳は詠の手を引くようにして歩みを速めた。早く通りで何か口にしたかった。

 死後の世界でも空腹の概念があるのは面倒だ。空腹になるということは食事をしなければならず、食事をしなければならないということは金が必要になる。金が必要になるということは働かなければならない。

 怠惰な詠からしてみれば、この循環こそが社会のしがらみであった。社会を成り立たせる仕組みではあるが、死後の世界で働くなんてごめんだ。死後の世界は、万人が想像するような抽象的な天国であって然るべきだ。

 ここで詠ははっとした。


「謳姉、手ぶらじゃん。金がないと何も食べられないぞ。巾着袋はどうしたんだ?」


「えっ……本当ね。海に落としてきちゃったのかしら。でも、死後の世界ではお金がいらないのかもしれないわ」


「そうだといいんだけど。死後の世界で食い逃げしたらどうなるんだろうな」


「地獄に堕とされたりして」


 死後の世界を散策しているうちに、詠は楽観的になりつつあった。これ以上死ぬことはないという勝手な先入観が彼を安心させていた。

 現実の世界で駄菓子屋があった場所では、ぼろい掘っ建て小屋がぽつんと寂寥感を漂わせていた。そこを過ぎると、通りの坂から一人の男性が下りてきた。

 二人は驚愕した。


「えっ! 詠くん、あれって……」


「まじか……あれ、侍だよな?」


 なんと、すれ違った男性は腰に刀を提げていた。

 着物を着て袴を穿き、足には草鞋を履いている。頭には藺草で編んだ笠をかぶっている。

 詠と謳は男性の背中を目で追ってから通りを見上げた。


「ここ、本当に死後の世界なのか? これはどう考えても……」


「……江戸時代の町よね。私たち、タイムスリップしちゃったのかしら」


「タイムスリップ……まるで映画の世界だな」


 二人の瞳に映ったのはいつもの通りではなかった。時代退行した旅館街の通りであった。

 旅館はもちろんのこと、跡地だった遊郭も営業している。遊郭の格子の中には、煌びやかに着飾った遊女が脚を崩して座っている。先ほどまでの土の道路とは打って変わって坂は石で舗装されており、一歩踏み出すたびに下駄の踵が高らかに鳴る。

 遊郭の格子の前で遊女を品定めする侍。籠を肩に担いで魚を売る漁師と海女の夫婦。柄杓で通りに水を撒く女中。蛇の目傘を日傘の代わりに差して買い物をする女性。番傘の下でお茶をすする若い娘。

 今日が平日か休日かはわからないが、この通りには活気があった。なんというか、現実の世界でいう社会のしがらみがここには存在しないのだ。生と性の他に余計なものが入り込む余地はなかった。

 どうも死後の世界ではなさそうだ、と詠は思った。それから、食い逃げはしない方が賢明だ、と思い直した。

 謳も同感だったので、腹をさすりながら肩を落とした。


「あー、お腹鳴っちゃいそう」


「別に鳴ってもいいじゃん」


「嫌よ、恥ずかしいもの。ねぇ、詠くん、茶屋でお団子が食べたいわ」


「金がないって。食い逃げでもするか?」


「嫌。いくら過去でもさすがに気が咎めるわ」


「じゃあ、我慢してくれよ」


「それも嫌。お腹空いたー。お団子が食べたいー」


「やっぱり子供じゃん……」


 謳が我儘を言い出したところで、詠はこれからのことに思案を巡らせた。

 金がなければ何もできない。どうして江戸時代にタイムスリップしてしまったのかはわからないが、ひとまず生きることを考えなければならない。花火の爆発で死んだというのに皮肉なことだ。


「なんにせよ、生きるには金が必要だな。はぁ、なんで死んだと思ったら江戸時代にタイムスリップしてんのかねぇ」


 顎に指を当てて唸っていると、謳はぽんと手を打った。


「詠くん、私たちの家に戻ってみない? もしかしたら、お金があるかもしれないわ。ほら、ドラマとか映画とかでタイムスリップする時は必ず何か意味があるでしょ? 私たちのタイムスリップにもきっと何か意味があるのよ。江戸時代の愛染家にその手がかりがあるかもしれないわ」


 謳の提案には賛成だった。

 行くあてはないし、金がなければ何もできない。謳姉の言う「意味」に繋がる手がかりを見つけて、さっさと現実に戻ろう。俺にはまだやり残したことがある。

 そういうわけで、詠と謳は愛染家があった場所に引き返すことにした。


「それにしても、夏祭りの途中にタイムスリップしてよかったな。甚平と浴衣なら目立つことはなさそうだ」


「そうね。きっとこれも意図されたことなのよ。誰の仕業か知らないけど、早く現実の家に帰りたいわ」


 謳は詠の手を引っ張って坂を駆け下りた。

 下駄がからからと軽やかな音を奏でる。黒髪がふわりと扇のように広がり、髪飾りがそよ風に揺れる。美躯が踊り、帯の上で豊かな胸が重々しく跳ねる。

 謳に翻弄されながら追いかけていると、愛染家があった場所に到着していた。玄関の戸には鍵がかかっておらず、手をかけると二人を待ちわびていたかのようにするりと開いた。

 愛染家は外装どころか内装まで変わってしまっていた。部屋は一つしかなく、貧乏な生活感が取り残されているのみであった。

 二人は部屋を物色した。一応は自宅のはずだったが、何故か空き巣紛いのことをしているという罪悪感に駆られた。

 詠は押入を、謳は箪笥を漁った。どちらからもかび臭さと埃が舞い上がった。


「あっ、詠くん、着物があるわ。袴もあるわよ。私たちの着替えかしら」


「用意がいいな。おっ、これは……刀だ」


 詠は押入の奥に手を伸ばして埃をかぶった刀の鞘を掴んだ。ずっしりとした重さが本物の刀であることを物語っていた。

 謳は箪笥から着物を引き出して既に浴衣の帯を解いていた。詠は頬を染めて白い肌から視線を逸らした。

 艶めかしい衣擦れの音。着物の衣擦れの音というのは小気味がいいもので、いくら姉であっても一種の興奮をそそる。この背徳の心地よさがまた興奮を高ぶらせる。


「詠くん、見て見て。どう? 可愛い?」


 着替えが終わり、謳はその場でくるりと一回転してみせた。

 黒を基調とした蝶柄の着物には年季が入っていたが、謳が着ると少女のように可愛らしく映える。芙蓉の花柄の浴衣よりも似合うかもしれない。なんというか、江戸時代の雰囲気に馴染んでいる。


「へぇ、なかなかいいね。可愛いと思う」


「うふふっ、そうでしょそうでしょ。詠くんも着替えてみたら? 刀があったら侍になりきれるんじゃない? 男の子の夢が一つ叶うわよ」


 確かに、侍は男の中の男。詠も一度は侍に憧れたことがある。幼い頃、よく棒切れを刀に見立てては時代劇を真似て遊んでいたものだ。

 詠は甚平から藍色の無地の着物に着替え、これまたかび臭い袴を穿いた。佩き緒で帯刀すると、猫背の背筋がぴんと伸びた。


「素敵よ。詠くんもかっこよくなったわ。さて、身支度も整ったことだし、あとはお金ね。どこにあるのかしら」


「こういう場合、大抵は畳の下にあるんだよな。うちのへそくりも畳の下に隠してあっただろ。謳姉、ちょっと手伝って」


「うん」


 二人はそれぞれ畳の両端の隙間に指を入れ、呼吸を合わせて持ち上げた。朽ちかけた畳はささくれを落としながらいとも簡単に剥がれた。


「おっ、やっぱりあったか。畳の下はうちと同じ構造だな」


「そうね。江戸時代でも防犯はしっかりしているみたいね。私たちにしかお金の在処がわからないようになっているなんて」


 詠は床にぽっかり開いた空洞に収められた壺を取り出した。蓋を開けると、中は金貨、銀貨、銭で壺の半分以上が満たされていた。


「現実のお金に換算したらいくらくらいあるのかしら?」


「さあね。でも、団子くらいなら満腹になるまで食べてもおつりが返ってきそうだぞ」


「やったわね! じゃあ、今夜は通りで一番高級な旅館に泊まっちゃおうか?」


「そうしよう。今夜はぱーっとやるか」


 二人は江戸時代の町にタイムスリップしてしまったことなんてすっかり忘れてそのまま家を飛び出した。

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