第一章 夏来たりなば死遠からじ
夏来たりなば死遠からじ1
目が覚めても視界は暗いままだった。
詠は朦朧とする意識がはっきりして暗闇に目が慣れるのを待った。
一分はぼーっとしていただろうか。詠は立っていることに気付いた。そして、隣には謳がいて手を繋いでいることに気付いた。
「ねぇ、詠くん、楽しみね」
「えっ?」
「花火よ」
「花火?」
「もしかして、立ったまま居眠りしていたの?」
どうやらそのようだった。詠はわけがわからなくなって思わず噴き出した。この状況が滑稽に思えた。
すると、謳もつられてくすくす笑った。二人が笑った理由には温度差があったが、彼女は楽しそうだった。
ついさっきまで俺は家にいたはずだ。俺はミュージカル映画を見ていて、謳姉は料理をしていた。途中で居眠りしてしまって、目が覚めたらここにいた。何かがおかしい。俺は夢を見ていたのか? それとも、まだ夢を見ているのか?
詠は謳の全身を見回した。それから、自分の全身を見下ろした。
謳は冷涼な青を基調とした芙蓉の花柄の浴衣に身を包んでいた。一度も見たことのない浴衣だった。どうやら新しい浴衣のようだ。
そういえば、浴衣を新調したいと言っていたような気がする。何が夢なのかさっぱりだが、謳とのデートを渋々了承した記憶がある。では、これが現実なのだろうか?
詠は籠目の甚平の袖を持ち上げてふっと細く息を吐き出した。
いずれにせよ、レンタルショップの彼女とのデートには漕ぎつけなかったようだ。いや、あれは単なる妄想だったのかもしれない。レンタルショップに通っていたこと自体が夢だったのかもしれない。
下駄を鳴らしながら背後を振り返ると、そこは謳が働いている道の駅だった。その前には屋台が立ち並んでおり、今さらながら喧騒と囃子が耳に入ってきた。
詠と謳が立っていたのは堤防の上だった。居眠りしていてよく海に落ちなかったな、と我ながら呆れた。
この町の夏祭りの最後を締めくくるのは花火で、海の上の船から盛大に打ち上げる。夜空に咲く花火も美しいが、海に映る花火を見落としてはならない。海が色鮮やかに染まる光景は神秘的で一層美しい。
潮風が気持ちいい。昼は鬱陶しくもあったが、角のない涼しい潮風は憎めない。
海の上に浮かぶ船から太鼓の力強い音色が響く。
「いよいよね。詠くん、今日は楽しかったわ。来年も、再来年も、ずっと私とデートしましょうね」
詠は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「謳姉は結婚しろよ。二十三歳なんだから、早く結婚しないと賞味期限が切れるぞ?」
「やぁん、それは言わないでよ。私には恋愛経験がないんだから。私だって結婚はしたいけど……はぁ、姉弟で結婚できたらいいのに」
詠が返す言葉を探していると、破裂音と共に空がぱっと明るんだ。
空に咲き誇る大輪の花。これが視界に映った瞬間、二人は全てを忘れた。言葉通り全て。彼らの脳内には微塵の思考もなかった。ただ夜空のカラフルな梔子を見上げていた。
「……詠くんもいつかは結婚するのよね」
「えっ?」
謳の握力が強められた。ぽつりと放り投げられた呟きは、太鼓の音色と花火の破裂音によってかき消された。
ふと脳内の片隅にレンタルショップの彼女のことが蘇った。
結局、俺は彼女をデートに誘えなかったのか。たった一言が言えなかったのか。
無性にやるせなくなった。一時の希望が消え失せて、かつての怠惰と絶望が帰ってきた。何もかもがどうでもよくなって、彼女に勧められてレンタルした恋愛映画を見たくなった。
「来年も、再来年も、ずっと謳姉とデートすることになるのかねぇ」
謳は目を見開き、微笑みを浮かべた。
「そうよ。詠くんに彼女ができるとは思えないわ。だって、出会いがないもの。それに、詠くんはだらしないから結婚できないかもしれないわね」
「毒舌だな……謳姉は美人だししっかりしてるから結婚できると思うんだけどな。学生時代に告白されたことはないのか?」
「あるわよ、何度も」
「あるのかよ。じゃあ、なんで誰とも付き合わなかったんだ?」
謳は首を傾げて唸った。
「うーん、なんでかしらねぇ。気に入らなかったからかな。だって、相手が魅力的だったら迷わず付き合っているはずだもの。私には詠くんしかいないのかしら」
「謳姉は理想が高いんだか低いんだかわからないな」
釣瓶打ちの花火がぴたりと止まり、太鼓のリズムが変わった。最後の花火が打ち上げられる合図だ。
毎年最後の花火には職人の意匠が凝らされている。夏祭りを締めるに相応しい一発が打ち上げられる。
詠と謳は期待に胸を膨らませた。
確か、去年は虹色の花火だった。今年は一体どんな花火だろう。
「あっ、打ち上げられたわ」
子供のようにはしゃぐ謳は可愛らしかった。倒錯的な流れ星にぼんやりと照らされた笑顔は、姉ながら眩しくて美しかった。
しかし、ふっと謳の顔が見えなくなった。嫌な予感がした。
「あら? 不発かしら? そういう仕掛けなのかしら?」
謳の声には焦りが混じっていた。
最後の花火がなければ夏祭りは終わらない。もし打ち上がらなければ締まりの悪い夏祭りになってしまう。
花火玉につけられた笛の甲高い音が鳴り続けている。そればかりか、どんどん大きくなって近付いてきているような気がする。不発に終わって落下しているのだろうか。
「不発みたいだな。謳姉、今年は残念――」
詠の言葉を遮るように、隣から凄まじい衝撃音がした。何事かと思ってその方向に視線をやると、そこには球状の巨大な塊があった。
詠の身長の半分くらいは優にあるだろうか。不気味な塊を前にして、二人は身体が硬直して微動だにできなくなった。脳は警鐘を鳴らして逃げろと訴えていたが、身体が言うことを聞かなかった。彼らは手を繋いだまま呆気に取られていた。
刹那、黒い球体が爆発して目の前が真っ白になった。それが不発の花火だと気付いた時にはもう遅かった。詠と謳は爆発に巻き込まれて堤防から吹き飛ばされた。
なんの感覚もなかった。身体が焦げても激痛が走ることはなく、逆に心地いい浮遊感があるばかりだった。
詠と謳は海に落ちた。火傷に塩水は発狂ものだが、感覚がなくて助かった。
詠は海に沈みながら堤防に咲く花を見上げていた。水の中から見る花火は幻想的で、彼は感動に涙しそうになった。
――死んでも後悔はないと思っていた。
だが、違った。胸中には一つの後悔があった。死の間際になって後悔が浮かび上がってきた。
今日言えなかったたった一言を言いたかった。レンタルショップの彼女をデートに誘いたかった。彼女と夏祭りに行きたかった。
まだ死にたくない。ちくしょう、俺は花火に殺されるのか。最後の花火で人生の最期を迎えることになるなんて洒落にならない。
二人は手を繋いだまま死んだ。
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