御巫メランコリー

姐三

プロローグ 海が見える町

海が見える町

 夏の鋭く刺してくるような日差しの下、愛染詠あいぜんよみは額に溜まった汗の粒を拭いながら歩いていた。

 片手に提げているのは、DVDが何枚か入った袋。うだるような暑さの中、詠は商店街の一角にあるレンタルショップを目指していた。

 視界の端を鬱陶しくちらついているものがある。視線の先には道路を歪曲させる陽炎が揺らめいているが、視界の端ではそれとは異なるものが詠の気を引こうとしている。絢爛たるテンプテーションに意識をかき立てられる。

 絶対に振り向いてやるものか、と意地を張っていたが、詠はつい横目でそれを見てしまった。

 縹渺たる碧海。それはまるで変幻自在の鏡のように日光を反射し、波打ってはきらきら弾けるように点滅してあらゆる方向に白い光線を放っている。永遠に寄せては返す波のさざめきは、耳鳴りのように鼓膜を撫で続ける。潮の粘りつくような匂いが鼻腔を突く。

 詠は海で泳ぐのが嫌いだ。というよりは、海の塩が嫌いだ。泳ぎ終わった後、身体が乾いてくると襲い来る不快な感覚にはぞっとする。塩を振りかけられた蛞蝓を見かけるたびに同情してしまう。

 海よりも川で泳ぎたい気分だった。川なら塩で身体がべとべとする心配はないし、水も冷たく爽快だ。それでもこの暑さの前に塩への嫌悪は脆く、今すぐにでも衣服を脱ぎ捨てて海に飛び込んでも構わなかった。汗で身体がべたついていることに変わりはないのだ。

 詠は拭えども拭えども湧いてくる汗を諦めて、くたびれた駄菓子屋に立ち寄ることにした。

 立てつけの悪いドアを開けると、冷たい風が詠の全身を包み込んだ。その瞬間、生き返ったような気分になった。


「はぁー……ずっとここにいたい……」


 シャツの裾をはためかせて汗に濡れた背中に風を送っていると、金髪の女性が暖簾をくぐって現れた。


「おばさん、ここに住んでいい?」


「駄目だっつーの。ただでさえ狭いんだからさ。ってか、おばさんって呼ぶなっつってんだろ。お姉さんって呼びな」


「もうお姉さんって年でもないでしょ。もうアラサーじゃんよ」


「うるせぇな。アラサーでもまだおばさんじゃねぇだろ。なんだよ、冷やかしに来たのか? それとも、涼みに来たのか?」


「おっ、うまいね」


「そういうつもりで言ってねぇし。あっ、そうそう。あんたが前から飲みたがっていた杏仁豆腐味のラムネ、仕入れてやったよ」


「まじで? おばさんのことだからどうせすっぽかすだろうなって思ってたのに」


「私は約束を破らないよ。ってか、おばさんじゃねぇっての。私が飲んじまうぞ?」


「待って待って。お姉さん、譲ってください」


「ふん、安いやつめ」


 代金を払い、おばさんもといお姉さんから白濁としたラムネを受け取る。凸型の蓋でゴムパッキンからビー玉を外す。炭酸が弾けて泡が噴き出す。一滴もこぼさないように瓶に唇を寄せて泡を吸う。炭酸が落ち着いてくると、瓶を仰いで一気に飲み干す。

 確かに、ほのかに杏仁豆腐の風味がした。が、詠が何より気に入ったのはこの化学的な味だった。言うなれば、メロンソーダの類いだ。

 詠は化学的な味を愛してやまない。杏仁豆腐味のラムネをお姉さんに注文しておいたのもそのためだ。

 最後の一滴を受け止めようと舌を震わせながら、詠は畳の上に胡坐をかいて団扇で金髪を煽ぐお姉さんを見やった。

 肩紐の緩くなったキャミソール、ダメージ加工の施されたデニムのホットパンツ。一言で表すなら、エロい。胸元も太ももも際どい。

 もう少し若かったらなおよかったんだけどな。まあ、眼福に損はないからいいか。


「おば……お姉さん、これ、気に入ったわ。また入荷しておいてよ。また買いに来るからさ」


「おう。空き瓶は外の箱に入れておいてくれ。ほらよ」


 お姉さんが親指で十円玉を弾き、詠は片手でそれを掴んだ。

 オアシスを後にするのは名残惜しいが、どうしてもDVDを返しに行かなければならない。長居していたらここに根を生やしてしまいそうだ。

 ひとまずバニラのアイスクリームを買って外に出た。途端に熱気が押し寄せてきて、詠はげんなりした。

 さっさと食べてしまわないとアイスクリームが溶けてしまう。現にもう既に溶け出してコーンの縁がふやけている。

 詠はすするようにアイスクリームを食べた。先ほどよりは体温も下がり、暑さに対するやり場のないいら立ちも多少は治まった。レンタルショップまでの辛抱だ。

 海の誘惑に背を向けると、両端に古びた建物が立ち並ぶ通りに入る。ここには歴史ある旅館が密集しており、多くの観光客が泊まっていく。中には遊郭の跡地も残っており、かつての繁栄を物語っている。

 平日は閑静だが、休日は観光客で賑わう港町。観光地のみならず、この町は漁業が盛んなことでも有名だ。魚市場の魚は新鮮で安く、道の駅では魚を加工した手作りの料理が食べられる。海が澄んでいるため、海水浴も人気がある。

 詠は重い足取りで旅館と遊郭の間を通り過ぎた。

 海から離れていくと、今度は山の方から蝉のやかましい鳴き声が聞こえてくる。夏の山ではけたたましいサイレンがいくつも鳴り響いているからたまらない。はるばる町に下りてきて一体どんな危険をほのめかしているのだろうか。

 命を削って鳴く蝉。蝉の鳴き声は耳障りだが、本来なら憐憫してやるべきなのかもしれない。絶対に憐憫してやるものか、と詠はまた意地を張っていたのだが。

 坂を上ると商店街の門が見えてくる。レンタルショップは間近だ。

 今日は平日だが、高校は夏休みだ。夏休みに入ってからというもの、詠は毎日欠かさずレンタルショップに通っている。

 退屈を凌ぐために映画を見ているということもあるが、詠にはそれとは別の理由があった。

 商店街に足を踏み入れる。アーケードのおかげで太陽が遮られる。

 商店街には蒸し暑さが籠っていた。今度はサウナのような場所に押し込められて、ねっとりとした汗がシャツに滲んだ。

 詠は足早に小さなレンタルショップに向かって歩みを進めた。やっとのことで自動ドアの前に立つと、一瞬くらりと眩暈がした。急激な温度変化のせいもあったが、やはり彼には別の理由があった。

 DVDを整理する店員。詠は彼女に一目惚れした。

 艶やかさを通り越して紫がかった黒髪。腰の辺りまで伸ばされたそれは、白い紐のような髪留めで結われている。身長は女性にしては高めで、もし詠が彼女を抱き寄せたらちょうど肩の辺りに頭が来るくらいだ。

 美人な店員は棚にDVDを収めて自動ドアの方を振り返った。


「いらっしゃいませ」


 詠は会釈して店員が整理している棚の隣に立った。

 横目で店員を観察する。

 清潔感のある白のブラウス、細身のスキニーパンツ、ワインレッドのパンプス。レンタルショップのロゴが入ったエプロンをつけているが、胸の膨らみははっきりしている。美脚を際立たせるスキニーパンツは肉付きのいい尻を浮き出させており、くるぶしとパンプスのコントラストが鮮明に映える。

 詠が好きなのは外見に限らない。客として少し話したことがあるくらいなので彼女のことを理解しているとは言い難いが、なんというか、彼女のミステリアスな雰囲気が好きなのだ。

 話している時は愛想よく笑顔を咲かせるのだが、こうして横目で見ていると彼女の表情は影を帯びている。アンニュイというべきだろうか、デカダンというべきだろうか。彼女にはそういった負の感情が宿っている。

 彼女と出会ってから、時折激しいじれったさに駆られることがある。どうして彼女の心に話しかけられないんだ、と。

 しかし、いざ彼女を前にすると声が詰まって、思わず上辺だけの言葉を発してしまう。じれったさが積もりに積もって眠れなかった夜もある。


「あの、すみません」


 また上辺だけの言葉が喉元に出かかっていた。


「ミュージカル映画ってありますか?」


 結局、詠は蝉の抜け殻のような言葉を吐き出した。

 彼女は詠のじれったさを見透かして微笑み、「こちらです」と言って案内した。彼女についていくと、そこはミュージカル映画のコーナーだった。このレンタルショップには何度も足を運んでいるため、詠はミュージカル映画が陳列されている棚を把握していた。わざわざ尋ねたのは、話題がないながらも彼女に話しかけてみたかったからだ。

 いつものように客と店員の関係。なんの進展もない。当然だ。彼女の心に話しかけてみなければ関係が変わることはない。

 ところが、今日はいつもと違った。


「ミュージカル映画が好きなの?」


「えっ?」


 詠が放心して何も答えられないでいると、彼女は含羞の表情を俯かせた。


「ご、ごめんなさい。馴れ馴れしかったかな」


 詠は慌てて首を横に振った。


「そ、そんなことはありませんよ」


「それならよかった。ミュージカル映画を借りるなんて渋いね」


「テレビでやっていたのを見て興味が湧いただけですよ」


「へぇ、そうなんだ」


 詠は自然と頬が弛緩するのを感じた。鏡を見たらだらしない表情が映っていることだろう。表情を引き締めると、今度は彼女が口元を綻ばせた。

 まさか彼女の方から話しかけてくれるとは思いもしなかった。彼女の眼中に残っていたのは喜ばしいことであったが、彼女の優しさに甘んじてしまったようで少し悔しかった。勇気を出して話しかけてみたかった。

 彼女のおかげで緊張が解けたのか、今なら彼女の心に話しかけられるような気がした。


「あの、店員さんのおすすめの映画ってありますか?」


「おすすめの映画……そうねぇ、何かしら」


「店員さんが好きな映画とか、人生で一度は見ておいた方がいい名作とか……なんでもいいんです」


「うーん、そうだなぁ。レンタルショップの店員だけど、映画はあまり見ないからなぁ。じゃあ……これは?」


 彼女は棚を移動し、一枚のDVDを抜き取った。それは、パッケージからして恋愛映画のようであった。


「恋愛映画ですか」


「うん。この映画は何度も見たけど、全然見飽きないの。この映画は見るたびに結末が変わるのよ」


「結末が変わる?」


 聞き返すと、彼女はこくりと頷いた。


「解釈が変わるって言った方がいいのかな。この映画には恋愛の全てが集約されているような気がするの。だから、この映画を見た時の感情によって結末が変わるっていうか……ごめんなさい、意味がわからないよね」


「いや、なんとなくわかりますよ。俺にもそんな経験があります。見たことのある映画を改めて見たら、解釈が全く変わりました。そういうことですよね?」


「多分、そうだと思うわ。ふふふっ、私にもよくわからないの。私、恋愛には詳しくないから」


「店員さんは恋愛をしたことがないんですか?」


 言い終わらないうちに、詠は失言を悟った。同時に、彼女の心に話しかけることができて胸のつかえが取れたような気分になった。

 彼女の頬にわずかな紅が差したのを詠は見逃さなかった。


「恥ずかしい話、ないわ。私、恋愛とは無縁だもの。ふふふっ、だからこそ恋愛映画が好きなのかもしれないわね」


 この時、詠には彼女の「だからこそ」の意味が理解できなかった。が、今はそれでもいいような気がした。

 詠は適当なミュージカル映画と彼女おすすめの恋愛映画をレンタルすることにした。

 レンタルする期間は一泊二日。家とレンタルショップを行き来しなければならないが、料金は安く済む。その上、彼女にも会える。

 詠は密かに皆勤賞を狙っていた。小学時代のように早起きしてラジオ体操をするようなものだ。毎日スタンプを集めたらお菓子の詰め合わせがもらえた。レンタルショップにそんなものはないが、彼女という魅力的なものがある。


「ありがとうございました」


 彼女がお辞儀するのを見つめながら、詠は踵を返しかけてぼーっとしていた。彼はある思考に取り憑かれていた。


「あの、何か?」


「い、いや、なんでもありません。また来ます」


 詠は今度こそ踵を返してレンタルショップを後にした。

 詠に取り憑いたある思考――それは、じれったい胸のつかえであった。先ほど取れたものとは別の、さらに大きな塊であった。

 詠はうなだれて溜め息を吐いた。

 どうしてたった一言が言えないんだ。このままじゃ何も変わらない。たった一言で前に進めるかもしれないのに、俺には言えない。言う勇気がない。


 ――夏祭り、一緒に行きませんか?


 たった一言だが、それは詠にとっては重いものだった。胸中にしまい込んで石のように凝り固まってしまっていた。

 刻一刻と夏祭りが迫ってくる。殺風景な夏祭りが夢にまで出てくる。坂を下りていると、蝉の鳴き声が背後から急かすように轟く。


「意気地なしめ!」


 詠は頭を掻きむしり、ひっそりとした旅館と遊郭の間を駆け抜けていった。言うまでもなく、家に到着する頃には汗だくになっていた。熱された空気を吸いすぎて肺がアイスクリームのように溶けてしまったかのようだ。

 玄関のドアの前には、仰向けの蝉の死体が転がっていた。わざわざ我が家の前で死んでくれてありがとう、と内心で呟き、詠はサンダルの爪先でそれを蹴って退けた。


「ただいま」


 誰に言ったつもりもなかったが、すぐに「お帰りー」という返事があった。

 まだ午後四時を回ったくらいであったが、五歳年上の姉――うたが道の駅のアルバイトから帰ってきていた。


「謳姉、帰ってたんだ。早かったな」


「まあね。平日はお客さんもいないし、あまりすることがないのよね。暇だったから早めに上がったのよ」


「休日は打って変わって忙しいのにな」


「そうなのよねぇ。平日と休日が極端なのよねぇ。まあ、いいんだけどさ。ところで、そんなに汗だくになって何をしてきたの?」


「DVDを返して借りてきた」


「ふーん、詠くんも暇ね。っていうか、まとめて借りたらよくない? そうしたらこの炎天下を毎日出歩かなくて済むのに」


 詠は苦笑した。


「運動不足だからさ。夏休み中くらい運動の日課があった方がいいじゃん?」


「それもそうね。シャワーでも浴びたら? 冷蔵庫にアイスクリームがあるから後で一緒に食べよ」


「おっ、サンキュー」


「あー、なんか私も汗流したくなってきちゃったなー。詠くん、たまには一緒に入らない?」


「入らないって。この年にもなって姉弟で一緒に入ったらやばいだろ。入ってくるなよ? 絶対入ってくるなよ? 絶対だからな? ふりじゃないからな?」


「あははっ、詠くんったら、照れちゃって可愛い」


 詠が念を押したのは、謳に前科があるからだ。いつだったか、風呂に入っているといきなり乱入してきて、背中を流すと言って聞かなかった。幸いその時は既に身体を洗い終えていたからさっさと逃げ出すことができたが、長居することになっていたら危なかった。

 謳はブラコン気味だ。年の離れた弟を「詠くん」と呼んで溺愛している。謳姉がブラコン気味になるのも仕方のないことだ、と詠は思う。

 八年前――小学四年生の時だ。両親は仕事の都合で家を出た。

 現在、父は都会の証券会社に勤めており、母は田舎の小学校で教師をしている。謳はアルバイトをしているが、生活費は毎月送られている。両親が共働きのため、むしろ十分すぎるくらいだ。

 当時は母方の祖母が同居していたのだが、というより、そもそもこの家は母方の祖父母の実家なのだが、祖母が亡くなってから詠と謳は二人で生活することを余儀なくされた。とはいえ、その時にはもう謳は高校を卒業していたので、姉兼母として詠を世話することができるようになっていた。働きながら家事をこなしているうちに母性愛に目覚めた謳は、だらしない弟に強い愛着を抱くようになった。

 詠はぬるいシャワーを浴びながらこれまでの生活を顧みた。

 謳は母よりも母らしい存在だ。今まで面倒を見てくれたことには感謝しているし、美人でしっかりしている彼女が弟として好きだ。

 だが、いささか謳の母性愛が過剰になりつつある。詠が家事を手伝わないのを黙認し、そればかりか甘やかしている節がある。最近では夜も一緒に眠っている。暑苦しくて仕方ないが、邪険にしようものなら子供のように駄々をこねる。母性愛の反動か、彼女は恋人も作らず詠にべったり甘えている。

 無精で伸びた髪の水気を拭き、ひとまず下半身にルームウェアを履いた。上半身はリビングの扇風機で涼んでから着ることにした。


「おおっ、詠くん、まだ腹筋割れてるんだ?」


「ああ、これ? 最近筋トレを再開したんだよね。ほら、運動不足だからさ。それに、筋肉があった方がもてるでしょ」


 詠は控えめに割れた腹筋を撫でた。

 謳は詠の半裸をちらちら横目で見やりながら唇を歪めた。


「そうね。素敵だと思うわ」


 中学時代、詠はテニス部に所属していた。が、高校に入学してから帰宅部に転身した。放課後になると誰よりも早く家に帰る――これが帰宅部の活動内容だ。無論、部員は詠一人だ。思い返してみれば、無気力に襲われたのはこの頃だったのかもしれない。

 幼少の時分より詠には将来の夢というものがなかった。小学校で配られたプリントの将来の夢の欄にはコンビニの店員と書いたが、夢と呼ぶにはあまりにも夢がなさすぎる夢だ。子供ながらに思い描く誇大妄想的な夢ではなく、現実味のあるちっぽけな夢。幼心にも彼は夢を見なかった。

 惰性で生きていることに気付いた途端、全てに興味が失せてやる気がなくなった。無味乾燥な人生に絶望し、死んでも後悔はないと思っていた。

 しかし、レンタルショップで彼女と出会って詠は変わった。生きていればなんとかなるという半ば開き直った希望ではあったが、彼にとってはれっきとした希望であった。彼女は漠然とした夢となった。

 冷蔵庫の中のビニール袋を漁り、バニラのアイスクリームを二つ取り出す。一つをリビングのソファーに腰を沈めた謳に投げ、足で扇風機の電源を入れる。が、付属のスプーンを渡し忘れていたことに気付き、結局ソファーまで届けに行く。


「はい、謳姉」


「ありがと、横着さん。そういえば、詠くん、もうすぐ夏祭りね」


 詠はどきりとした。


「そ、そうだな。それがどうかした?」


「今年もデートしましょうね。彼女のいない詠くんのためにお姉ちゃんがデートしてあげる」


「余計なお世話だよ……」


「でも、どうせ今年も予定はないんでしょ?」


 詠は答えに窮した。

 今のところ予定はないが、まだわからない。まだ彼女をデートに誘っていないのだ、結果はわからない。

 謳は窺うように上目遣いをした。

 断る理由がない。かといって、後から行けなくなったと言ったら謳がかわいそうだ。詠がいなければ彼女は一人で夏祭りに行かなければならない。


「浴衣を新調しようと思うんだけど、詠くんもついてきてくれるよね?」


 最後の一押しとばかりに小首を傾げた謳。ますます断りづらくなり、詠はついに首を縦に振った。


「わかった、行くよ。いや、またレンタルショップにでも行こうかと思ったんだけどさ」


 咄嗟に思いついた言いわけは、「昼のうちに行っておきなさいよ」の一言であっさり一蹴されてしまった。

 謳とのデートは気楽だが、高校生にもなって姉とデートするのはどうかと思う。子供じみているといえばそうだが、何より姉とデートという言葉の響きに違和感がある。

 謳はアイスクリームをぺろりと平らげてソファーから立ち上がった。


「さて、夕食の支度をするとしますか」


「謳姉、今日の献立は何?」


「えっとねー、鰹のたたきと赤海老の刺身。あと、味噌汁」


「また魚かよ」


「でも、詠くん、鰹も赤海老も好きでしょ?」


「まあ、そうだけどさ。さすがに毎日魚だと飽きるな。港町に生まれたのが運の尽きか」


 料理を作ってもらっているというのに、詠はよく文句を言う。魚が嫌いだ、味付けが薄い、おかずが少ない――いくら文句を言っても謳は怒らない。明日はもっとよくするわね、と言って素直に改善してしまう。これも姉弟の関係を悪化させている原因の一つだ。

 夕食ができるまでの間、詠はテレビをつけてミュージカル映画を見ることにした。

 謳がエプロンをつけると、レンタルショップの彼女のことが脳裏を過ぎった。

 彼女をデートに誘えるだろうか。夏祭りまでにたった一言が言えるだろうか。果たして俺にそんな勇気があるんだろうか。

 ミュージカル映画の陽気な音楽がかかると、そんな不安は雲散霧消してしまった。

 女優の瀟洒な歌声と包丁がまな板をたたく音を耳にしているうちに、いつの間にか詠は眠りに落ちてしまった。

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