幕間 予兆

 ――そこは、最早元の景色がどのような物であったのか解らない程の、黒光りする細長い無数の「何か」によって埋め尽くされていた。

 その黒い「何か」――触手のような物はその1つ1つがビチビチと奇怪にうごめいており、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせた。


 その蠢く触手群の中心部――もっとも触手が密集しているその場所に……1人の女性が囚われていた。

 女性は触手によって、両手足を広げた大の字の姿勢で拘束されており、触手は女性の四肢や胴体の上を無遠慮に這い回っていた。


 苦しげに息を吐きながら喘ぐ女性を、なぶるかのように身体中を這い回る黒い触手……。それは、もしここに第3者がいれば、男女問わず思わず生唾を飲み込んでしまうかのような淫靡な光景であった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 その女性――フォーティアは舜をイシュタールに送り出して以来、自らを襲うこの淫靡な苦痛に耐え続けているのだった。

 口腔と秘所だけは、残り少ない神気で辛うじて守り通しているが、それもこのままでは破られるのを待つだけの虚しい抵抗であった。


「くぅ……!」


 今も粘っこく身体を這い回りながら、隙あらば体内に侵入しようと、触手が口腔の周囲をねぶる。神膜で防いでいるとは言え、紙一重といって良い距離。おぞましさのあまりフォーティアは再びえづきそうになるが、辛うじて耐え抜く。


 自分までが敵の手に落ちれば、イシュタールへの神気の加護が無くなってしまう。イシュタールの女性達は、神気の加護によって辛うじて抵抗している状態だ。もし神気が無くなったら、待っているのは……地獄絵図だ。それだけは何としても阻止しなければならない。




 もうどれくらい、この責め苦を受け続けているのか、時間の感覚はとうに失われていた。少なくともフォーティアには、永遠のように感じられていた。

 それでいて今のように少しでも気を抜くと、口腔や秘所を犯し、侵入して来ようとしてくるので、意識を集中させ、神膜を維持し続けなくてはならない。触手はその集中を乱そうと、淫靡な責め苦を与え続ける……。


 終わりのない……それでいて一瞬も気が抜けない状況に、フォーティアの精神は疲労困憊の極みにあった。そんな彼女を誘惑するように『声』が聞こえてくる。


『まだ虚しい抵抗を続けるのか……? もういい加減に楽になってはどうだ……? お前はよく頑張った。ここで屈しても、お前を責める資格のある者など誰もいないぞ?』


「くぅ……うる、さい……!」


 『声』――テスカトリポカの言葉を跳ね除けるフォーティア。しかしそこには一切の余裕は無かった。容易くそれを見抜いたテスカトリポカは、更に畳み掛けるように言葉を重ねる。


『何故耐える必要がある? お前の姉妹達も囚われている。お前を救う者はもう誰もいないのだ。ならばこれ以上の抵抗は、まさしく無駄……遅いか早いかの違いでしかないのだぞ……?』


「…………っ」


 相手の意図は解っている。こちらの心を折って、抵抗を弱めようとしているのだ。耳を貸してはならない。出来る事なら耳を塞ぎたかったが、触手で拘束されているので、それも出来ない。

 彼女に出来る事は、ひたすら意思を強く持って、耐え抜く事だけであった。


 希望が無い訳ではない。それは何とかこのテスカトリポカの魔手から守り通し、イシュタールに送り出す事は成功した。

 シュンが要石を1つでも破壊してくれれば――――


『くく……まさかお前が送り出した、あの少年を当てにしているのではあるまいな……?』


「……ッ!?」


 こちらの心を読んだかのように、テスカトリポカが嘲笑する。その余裕ある態度にフォーティアは、思わず動揺した。


「な、何を……」


『上位世界たるアヌから人間を呼び寄せて送り込む……。次元の理を捻じ曲げる力業……そうおいそれと多用できるものでは無いが、なるほど、確かにこの上ない特効薬にもなり得るだろう。正に神の御業に相応しい……』


 そこで勿体つけるかのように、一旦言葉を区切る。


『だが……お前にできる事は・・・・・・・・我々にもできる・・・・・・・とは思わんか……?』 


「なっ……!?」

 フォーティアは愕然として顔を上げる。


『無論……おいそれと多用できんのは我らも同様だが……幸い、お前の送り込んだ人間・・・・・・・・・・に対して強い恨みを持つ魂・・・・・・・・を見つけたのでな』


 アヌの人間で、シュンに対して強い恨みを持つ魂……。心当たりは――ある。


「ま、まさか……」


 最悪の想像がフォーティアの脳裏をよぎる。


『他の奴等もお前のやった事に興味を持ったようだぞ……? 皆、これと決めた人間の魂を呼び寄せたようだ。勿論、我もな……』


「そ、そんな……」


『ファハハ……お前のやった事は、結局単なる悪あがき……イシュタールに更なる混迷をもたらしただけ、という訳だ』


 その言葉に打ちのめされるフォーティア。心の動揺は、神気の守りを弱める。それと反比例するように、触手が再び攻勢を強める。


「ッ! しまっ……!」


 慌てて神気の維持に意識を集中させるが、一度動揺して弱った意思を立て直す事ができない。触手の持つ魔力に、自分の神力がどんどん削り取られていくのを感じる。このままでは突き破られるのは時間の問題だ。


『さあ……お前の送り込んだ人間が斃れ……最後の希望が失われるのを、ゆっくり待つとしようか。幸い、時間はいくらでもある……』


(ああ、シュン……ごめんなさい……。無力な私を許して……)


 フォーティアの目から、つうっ……と一筋の涙がこぼれ落ちる。

 

 陥落は、間近に迫っていた――。


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