第22話 絶望の淵で

「……ッ!?」

 疲れた身体に鞭打って立ち上がろうとした所で……ロアンナは背筋に強烈な怖気を感じた。彼女の狩人としての優れた感覚が、この怖気の正体をすぐに判別する。これは……殺気。それも相当に強力な。


「あっ!」


 それは女性達の誰かが発した驚きの声。その声に釣られるように、ロアンナを含めた全員が同じ方向を見やる。ロアンナが身を潜めていた小高い丘。その頂上に1頭の巨大な……馬がいた。


 勿論ただの馬ではあり得ない。かつて存在していた重装騎兵用の軍馬よりも、更に二回り程は大きい馬鹿げたような巨体。その巨体に見合うだけの筋肉に覆われ、重量感に溢れたその姿は、見る者に畏怖の感情を抱かせるに充分であった。


 体格だけではない。その体色は黒一色であり、頭から背中に掛けて真っ赤なたてがみをなびかせていた。その瞳もたてがみと同じような真紅の色に染まり、禍々しい印象を強めていた。


 更にその「馬」は、遠目にも判るほどの大きな……牙が生えていた。馬に似た、そして馬では決してあり得ないその生き物は――魔獣。


「な……あ、あれは……黒炎馬? こんな時に……!」


 いや、むしろこんな時だからこそだろうか。短槍を構えたロアンナは、後ろに庇った女性達を振り返った。




 魔獣は進化種にも敵対する事はあるが、基本的にゴツゴツ硬くて肉も不味い上に、魔法で反撃してくる進化種を敬遠する事が多い。


 その点女性は、肉も柔らかくて食べやすい上に、手痛い反撃を受ける事も殆どない。その為魔獣は、優先的に神膜内に入り込んで女性を狙う傾向が強かった。


 ましてやそれが神膜の外であれば尚更だ。魔獣は嗅覚も非常に優れている種が多く、最初からこの女性達を狙っていたのだろう。あの白鼠人は、恐らく魔獣に対する警護役を担っていたのだ。




(……真っ向からやり合うのは避けたい相手ね。ましてこの女達を守りながら勝てる相手じゃないわね……)



 黒炎馬は、魔獣でありながら魔法も扱う厄介な存在だ。相応に知能も高く、単体でも生半なまなかな進化種を凌ぐ程の強さなのだ。


「……いい? 決して走って逃げては駄目よ。見て解ると思うけど、絶対に逃げ切れないわ。あいつから目を逸らさずに、ゆっくりと下がるわよ……」


 恐怖のあまり泣きそうになっている女性達に言い聞かせるように話すロアンナ。その間も視線は、黒炎馬から一瞬たりとも逸らさない。



 いくら辺境とは言え、クィンダムとの国境……つまり神膜まではそれなりに距離がある。そんな風にジリジリ後退していたのでは、いつまで経っても国境に辿り着けない。それ以前に、黒炎馬の殺気に晒され続ける女性達が、精神的に持たないだろう。


 いや、そもそも魔獣は神膜内であろうと、お構いなしに侵入してくるのだ。つまりこうして捕捉されてしまった時点で、離脱という選択肢はほぼ不可能という事であった。


 状況は絶望的と言って良かった。黒炎馬がその気になって突っ込んできたら、ロアンナには女達を守る術がない。いや、ロアンナ自身すら生き残れるか危うい、という状況なのだ。


 それでも……諦める訳にはいかなかった。刹那的な生き方を信条とするロアンナだが、それは自暴自棄という事ではない。死ぬ時は最後まで徹底的に足掻いてやる、と心に決めていた。ましてや一度は助けたこの女性達を見捨てる事は出来なかった。


 ロアンナ達がジリジリと後退すればその分だけ、黒炎馬が同じ距離を詰めてくる。何故一気に襲ってこないのだろう、と疑問を感じる。


 黒炎馬から発せられる殺気は本物。なら、進化種を倒した自分を警戒している? ……理由が解らないまま、不気味な均衡状態が続く。


「うぐ……ひうっ……」


 案の定、女性達の誰かが緊張に耐えられなくなりつつあった。他の女達に伝播するのも時間の問題だろう。パニックになって瓦解する事だけは避けなければならない。

 ロアンナは、何とか女性達を励まそうと一瞬だけ振り向く。そして――信じられない物を見てしまった。



「なっ……あ……?」


 元の黒炎馬に視線を戻す事も忘れて……ロアンナは呆然とした声を発してしまう。




 ――そこにも黒炎馬がいた。勿論、前にいた魔獣が一瞬で後ろに回り込んだ訳ではない。別の個体だ。いつの間に現れたのか全く気が付かなかった。最初の黒炎馬の殺気に当てられて、周囲への警戒が極端に疎かになっていたのだ。


「……ッ!」

 慌てて周囲を見渡すと……そこにも黒炎馬がいた。いつの間にかロアンナ達は複数の黒炎馬に取り囲まれていた。その数……6頭。


(……くっ! やられた……!!)


 最初の個体が獲物の注意を引きつけている間に、仲間が獲物を包囲する……。どうやら1人たりとも逃がす気はないらしい。


「…………」

 状況は完全に詰んだ。最早自分達に助かる道はない。女性達どころかロアンナ自身も、万に一つも生き残れないだろう。


「あ……」


 女性達が放心したように、その場にへたり込む。生きることを諦めたのだ。

 ロアンナは諦めなかった。諦めてたまるか。最後の最後まで自分は諦めないのだ。



 ――ブオォォォォッ!!



 ロアンナの決意を嘲笑うかのように最初の黒炎馬が咆哮すると、それを合図に6頭の魔獣は一斉に襲い掛かってきた。魔法も使わず、直接蹂躙する気だ。


(私は諦めない! 絶対に諦めない! こんな所で死んでたまるか! 私は絶対に――)





「――伏せてぇっ!!」



 悲壮な覚悟で絶望的な戦いに身を投じようとしていたロアンナは、いきなり聞こえてきた人間の大声に、思わずその指示通りに伏せてしまう。


 一瞬で我に返って、今更伏せた所でどうなるんだ、と思いはしたが、一度反応してしまった身体は言う事を聞かない。或いはそれは、長年の狩人としての生活の中で磨かれた生存本能がそうさせたのかも知れない。


「……ッ!!」


 そのまま黒炎馬に踏み潰される未来を想像して、ロアンナは思わず目を閉じていた。しかし……いつまで経っても、その未来がやってこなかった。


「……?」


 恐る恐る目を開けたロアンナと女性達。そしてロアンナは信じられない物を目にする。何だか今日は信じられない物ばかり目にしている気がするが、他に表現のしようが無かった。

 

 ……自分達の周囲に半透明の障壁のような物が張られていたのだ。それは非常に強固らしく、黒炎馬の巨体による突進を受けても、小揺るぎもしていなかった。


 苛立った黒炎馬の1頭が、魔法を使ってきた。その口から扇状に広がる紅蓮の炎が、ロアンナ達を囲む障壁をすっぽり包み込んだ。


 思わず再び目をつむるロアンナ達。しかし炎は直接どころか、その熱波すら彼女達の元には届かず、周辺の草花を焼き散らしただけだった。


「な……何なの、これは……? け、結界……? でもそんな、あり得ない……!」


 同じような物は以前に一度だけ目にした事があった。〈僧侶〉と戦った時だ。こちらの神術の効果を完全に弾いてしまうその障壁に、大分手を焼かされた記憶がある。


 つまりこれは……魔法だ。魔法は進化種にしか使えない。進化種が、奴隷を守るために結界を張った? いや、しかし先程の声は、どう考えても進化種の物とは思えなかった。何故なら――



「ふうぅぅ! ……間一髪でした。……もう安心です。皆さんはしばらくそこで休んでいて下さい」



 そう言って、黒炎馬達が思わず振り返った向こうから姿を現したのは……見慣れない服を着た、黒髪黒瞳の1人の少女であった――。

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