第2話 異世界への誘い

 気が付くと舜は辺り一面闇に包まれた場所にいた。自分の手も足も何も見えない程の完全なる暗闇である。それどころか今自分が上を向いているのか下を向いているのか、否、自分の足で立っているのかすら解らなかった。何も見えない、何も聞こえない、何も感じない……。


 舜は気付いた。これは闇ではなく「虚無」であると。自分は死の世界へと足を踏み入れたのだ、と。



(これが……死? まさか、これが……永遠に続くのか……?)



 つい今しがた、生きることにんで自ら死を選んだ筈の少年は、次の瞬間猛烈な恐怖に襲われた。生きるという事は、何かを感じ続ける、という事でもある。五感の全てに何も感じられないという恐怖は、舜の心からあらゆる絶望を忘れさせ、激しい後悔と、生への渇望を呼び覚まさせるのに充分過ぎるものであった。


(嫌だ……! 怖い! 怖い!! 助けて……誰か!)


 後数瞬でもこの虚無が続いていたなら、恐らく舜の意識は発狂していただろう。だがその時、舜の「視界」に光の灯火のような物が映った。


(あれは……光?)


 それは光源と言うには余りにも頼りなく、今にも消え入りそうなか細い光を放ちつつ、この虚無に塗り潰された世界をフラフラと漂っているように見えた。しかし――それは確かにそこに存在していた。少なくとも舜にはそう思えた。そしてそれは微かではあるが、温もりという物を舜に「感じ」させた。



(ああ……! 感じる! 感じるぞ! 暖かい……!)



 何も考えられなかった。その灯火とどれ位の「距離」があるのかも判らないまま、舜は無我夢中で灯火に向かって「手」を伸ばした。




****




 ――次に感じたのは、光の奔流だった。否、奔流と感じたのは舜の主観であり、虚無から急に視界が戻った事により、明順応が追いついていない状態であった。そこは明るい場所だった。――そう、「明るい」と感じる、見えるのだ。


 そこはやはり、どことも知れない空間であった。周囲には濃い霧のようなものがかかっていて、遠くを見通すことは出来ない。それは前後左右だけでなく、上下に対しても同じであった。――舜は自分が空中のような場所に浮かんでいる事を知った。


 周囲を囲む霧の奥に光源のような物があるらしく、霧はボンヤリと発光しており、舜のいる空間を明るく暖かく照らすと共に、この世ならざる幻想的な雰囲気を醸し出していた。



(ここは……一体、何なんだ……? 死後の世界ってやつかな……? でも……)



 とりあえず周囲を観察し終えた舜は、次に自分の状態を確認する。


 身体が――ある。自分の手も足もちゃんとそこにあった。手を動かすことも出来た。自分の顔を触ってみる。――ある。自分の手首を触ってみると、脈が――ある。松岡達の返り血で汚れた学校指定の制服は、元の綺麗な状態に戻っていた。服の手触りも確かに感じる。


 ここが死後の世界と考えるには余りにも……妙であった。勿論、死後の世界がどういう物か知っている人間など居ないし、舜も例外ではない。しかし、舜は自分が「生きている」という事を、はっきりと知覚出来ていた。


(だとするとここは何処なんだ……? いや、それ以前に俺は何故「生きている」んだ……?)




「目覚めたようね」




 ハッとして、舜が声のした方を見やると、いつそこに現れたのか一人の女性が舜の前に佇んでいた。

 それは――美しい女性であった。舜も現代日本に生きる若者であり、映画やドラマなどに出る女優で美しい女性は数多く見ている。また幼馴染の莱香も近隣では有名な美少女であった。しかし目の前の女性は、そういった人間的な美貌とは性質の違う――そう、まるで神が緻密に設計したかのような余りにも整い過ぎた美貌であった。


 背中にまで掛かる長い金髪と、吸い込まれそうな程に澄んだ青い瞳。まるで神話の女神がそのまま抜け出てきたような印象を舜に与えた。


(綺麗だ……。でも……天使……? え? 本物?)


 現れた女性が、普通の人間ではないと思わせる決定的な証拠は、彼女の背に生えた2枚の純白の翼である。その動きや存在感を見ても、作り物とは思えない。古代風の白い衣装と相まって正に神話の中の天使そのものの姿であった。


 舜が状況を飲み込めず唖然としていると、目の前の天使は僅かに苦笑するような表情となった。



「混乱しているようね。無理もないわ。あなたは確かに一度死んだのだから……」


 半ば覚悟していたとは言え、改めて事実を告げられて舜は激しく動揺した。



「で、でも、それなら俺は何故生きているんですか? それに……ここは一体どこで、あなたは誰なんですか? それに一体何の目的で……」


 動揺から、矢継ぎ早に質問を発してしまう舜。天使はそれを制するように片手を上げた。



「落ち着いて。気持ちは分かるけど、一つずついきましょう。……まず私の名はフォーティア。あなたが住んでいた世界とは異なる世界における……まあ、神のようなものね」


「異なる世界……?」


「そう。一種の並行世界ね。長くなるから細かい説明は省くけど、重要なのは地球のある世界と異なる、別の世界が存在しているという事と、私がそこの神であるという事」


「神……ほ、本当に居たんですね……」


話の本筋はそこではないと思いつつも、つい間抜けな返答をしてしまう。再び苦笑するフォーティア。



「あなた達の世界にも神はいるのよ? 他のあらゆる神性を駆逐して、唯一神を名乗る神がね……。結果としてそれが今の状況を引き起こしたとも言えるのだけど……」


 神は本当にいる……? それなら何故自分もそして松岡達もあんな目に遭わなければならなかったのだろうか。



「……考えている事は解るわ。『神』はあくまで人間という種全体を管理しているの。あなた達の世界の人口が今どれくらいか知ってる? 個人の事情にまで影響を及ぼす事は、極めて稀と言っていいわ。特にあなた達の世界の『神』はね……」



 理屈は解る。それに世の中にはもっと酷い目に遭っている人も、明日食べるものにも困って餓死する人間だって大勢いる。そういう人達からすれば、舜の置かれていた状況など、ある意味では取るに足らない物だったろう。ただ理屈では解っても、感情が納得できるかは別の話だ。



「……納得が行かなそうな顔ね。気持ちは解るけれど、今は話を進めるわね。ここは私が管理する、2つの世界を結ぶ狭間のような空間、とでも言えばいいかしらね。まあこれはさして重要な事じゃないわ。そしてあなたが生きている理由だけど……これはあなたを生き返らせた目的にも関わってくるわ」



 何となく嫌な予感がした。異世界の神。そしてここは2つの世界を繋ぐ通路。自分はただ奇跡や神の慈悲によって助けられた訳では無さそうだ、と舜にも解ってきた。


「そう。あなたに私達の世界へ行って欲しいの。そして危機的状況にある人間達を救って欲しいの」



(……何か、こういうのどっかで見た事あるぞ)



 舜の幼馴染の莱香は誰もが羨む非の打ち所のない美少女だが、一つだけ周囲の人間には隠している事があった。舜だけが知っている莱香のもう一つの顔。それは彼女はかなりのオタク趣味である、という物だ。そんな彼女に勧められて読まされた所謂ライトノベルには、こうした異世界トリップを題材にした作品もあった事を思い出した。


(え……嘘だろ? これって現実だよな……?)


 固まってしまった舜を見て、フォーティアは若干同情的な視線を舜に送った。



「驚くのも無理ないわね。神は直接下界に干渉する事が出来ないけど、可能な限りあなたをサポートさせて貰うから安心して?」


「いや、その……そもそも、何で俺なんかに? もっと強そうな人居なかったんですか? いや、助けてくれた事には感謝してますけど……」


「……後で解ると思うけど、今あちらの世界は少々特殊な状況になっているの。男性が必要なんだけど、男性なら誰でも良いという訳ではないの……。強さよりもっと重要な事があって、あなたはその要件を満たしていたのよ。強さは後でも身に着けられるわ」


「要件?」


「それも後で解るわ。とにかくあなたが最適だったの」



「……因みにですが、断るという選択肢は……?」


「とても残念だけど……無いわ。あなたは私の道標みちしるべに手を伸ばした。今はまだ『仮契約』の段階よ。契約が無効となれば、あなたは……あそこへ戻る事になってしまう」


 それがあの虚無の世界を指しているのだと悟った舜は、激しく動揺した。あそこへ戻る事だけは絶対に嫌だ!



「そ、それじゃあ強制って事じゃないですか!」


「……そうなってしまうわね。見ず知らずの人間に遠い異世界の為に戦って貰うには、こうするしかなかったの。でも厳しい言い方になるけど、自ら死を選んだのはあくまであなた自身。私は一切干渉していないわ。あなたは本来あそこで死んでいる身なのよ……?」


「……っ!」

 確かに自ら死を選んだのは舜自身の意思だ。自殺せず刑に服する選択肢もあった。ああなる前に莱香に相談する事も出来た。つまらないわだかまりを捨てて親に助けを求めても良かった。それらをしなかったのは全て舜自身の選択であった。


 目の前のフォーティアに怒りをぶつける事は出来なかった。打算はあったにせよ、彼女はあの虚無から舜を救い出してくれたのだ。彼女の言う通り、本来はあそこで終わっていた筈の命だ。ならば命の恩人の為にやれるだけの事はやってみようと舜は決心した。



「……解りましたよ。俺に何が出来るか分かりませんが、やれるだけの事はやってみようと思います」



 フォーティアが肩の力を抜いて、安堵するのが解った。あの虚無の世界の事を持ち出せば、強引に従わせるのは簡単な筈なのに、随分と心優しい性格であるようだった。

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