第21話 忍び寄る魔の手(前編)
エレンたちから逃げ出したのは、これが2回目だった。
闘技場から離れてすぐに、町の路地裏に駆け込んだ。
一昨日エレンにキスされたのと、似たような場所だ。
この町はそれなりに広いみたいだし、こうして物陰に身を潜めていたら、すぐには見つからないと思う。
「……はぁ、はぁ」
足を止めて、息を整える。
身体も回復し切っていないのに、すごい無茶をしてしまった。
「……なんで逃げたんだろう、俺」
つい、そんな独り言を呟く。
本当は、理由なんてとっくに分かっているのに。
そもそも、気付かれるのは時間の問題だった。
一緒に生活していて、頭の中身がまるっきり変わっているのを誤魔化せる訳がない。
むしろ、よく2日も誤魔化せたものだと思う。
本当は、あの場で全部説明するべきだった。
俺が一体何者なのか。
記憶を取り戻したたけで、フェリクスという人間がいなくなったわけじゃないし、1年後にはエレンたちと過ごした記憶も戻ってくるって。
信じてもらえるかどうかは別として、少なくとも、俺にはそれを伝える義務があった。
でも、できなかった。
俺はエレンたちに説明することが怖かった。
だから逃げ出したんだ。
「……整理して考えると、問題は2つあるんだよな」
1つめは、まさにその記憶の問題だ。
3日前までの俺の頭には、フェリクスとしての記憶が入っていた。
今はそれがすっぽり抜け落ちて、代わりに俺の記憶が入っている状態だけど……。
これから先、フェリクスとしての記憶が全部戻ってきたとしても、今の俺の記憶が消えることはない。
要するに、現代日本での12年間と、この世界での12年間、2つの記憶が――人格が、頭の中で融合することになる。
それは本当に、フェリクスと呼べるんだろうか?
少なくとも、3日前の状態のままのフェリクスが帰ってくることは、もう絶対にない。
もちろん、どっちも俺であって、別人になるわけじゃない。
でも、それをエレンたちが理解してくれるかどうか、分からない。
それから2つめは……これまであんまり深く考えないようにしていた。
だけど本当は、神様の婆さんに話を聞かされたときから、ずっと心に引っかかっていたことだ。
「母親が5人ほしいとか、訳の分からないことを俺が願わなかったら、あの人たちの人生ってぜんぜん違ってたんだよな……」
妊娠なんてしなければ――エレンやイヴリンは、家を追い出されることもなく、ちゃんと跡目を継げていた筈だ。
ディーネも勘当されたりしなかった。
スズが暗殺者の一族を抜けることも。
プリシラは……まあ、よく分かんないけど、俺を産んだせいで人生が激変したってことは間違いない。
俺は、あの人たちの人生をメチャクチャにしてしまったのかもしれない。
起こってしまったことはもう取り消せないけど、それを知ったら、あの人たちはなにを思うんだろう?
自分たちの妊娠が、俺の我儘のせいだって分かっても……今と変わらずに、フェリクスを好きって言ってくれるんだろうか?
「……? いや、よく考えたらそれも変だよな」
12年間の記憶が虫食いみたいに残っているとは言っても、俺にとってあの人たちはみんな、3日前に知り合ったばっかりのおねーさんでしかない。
言ってみれば赤の他人だ。
俺が真実を話すのを怖がったのは、あの人たちに拒絶されるのが怖かったからだ。
でも、そもそもそれがおかしい。
どうせ出ていくつもりだったんだし、あの人たちに嫌われようと、俺に大したダメージなんてない筈なのに。
「……ああ、そうか。フェリクスか」
自分の胸に手を当てて、俺は納得した。
俺じゃない。
あの5人から愛されなくなることを、俺の中のフェリクスが嫌がっているんだ。
「……はっ。なんだよお前、そんなにあの人たちのこと、好きなのかよ」
自分相手だと分かっていても、つい呆れてしまう。
どんだけマザコン……ママっ子なんだ、こいつは。
「……ごめんな。俺なんかがいなけりゃ、お前はずっと幸せに生活できていたのにな」
心の底から羨ましいと思った。
あんなに良い人たちから愛されて、幸せの只中にいられるフェリクスが。
母親に見捨てられて惨めに死んだ俺とは、大違いだ。
「…………ぐすっ、うう」
……?
どこからか泣き声が聞こえてきた。
俺の声じゃない、別の誰かだ。
俺はきょろきょろと辺りを見渡した。
結構近くから聞こえる。
女の子の声みたいだけど……なんか、聴き覚えのある声だな。
「……あっ」
すぐに気付いた。
路地裏の壁際に、銀髪の女の子が座り込んでいた。
顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくっている。
「…………うう、なんで、なんでよぉ……あんなに、一生懸命稽古したのに……っ!」
アリエッタだった。
いつからここにいたのかは分からない……でも様子を見る限り、俺よりずっと前にここに来て、今まで泣き続けていたみたいだ。
「……く、悔しい……悔しいよぉ……ひっく……っ」
アリエッタは相当落ち込んでいるみたいで、俺に気付く様子もない。
「…………」
俺はちょっとだけ考えてから、何も言わずにこの場を離れることに決めた。
泣いている女子をそのままにするなんて気が引けるけど、俺がアリエッタにかけてあげられる言葉なんて、なにもない。
アリエッタが今泣いているのは、俺が試合に勝ったせいだ。
むしろ、一番顔を見たくない相手だろう。
下手に慰めたりしたら、余計に傷付けてしまうかもしれない。
「……ごめんな」
俺は小声でそう言って、すぐにアリエッタから視線を外そうとした。
でも、できなかった。
「…………っ」
視線を外す直前に、気付いてしまったからだ。
アリエッタはさっきから、布みたいなもので自分の目元を拭っている。
よく見たらそれは、ハンカチじゃない。
スカートの裾だ。
よっぽど周りが見えていないのか、アリエッタは捲りあげた自分のスカートで涙を拭いていた。
尻もちをついた状態でそんなことをしたらどうなるか、考えなくても分かる。
黒とグレーの、縞々の模様だった。
……どうしよう。
見て見ぬ振りをするべきか……いやでも、路地裏とはいえまったく人通りがないわけじゃないし。
もし誰かが通りかかったタイミングで、アリエッタが自分の状態に気付いたら。
ただでさえ落ち込んでいるあいつは、もう立ち直れなくなるかもしれない。
「……はぁ」
溜め息をついて、俺はアリエッタに近づいていった。
今は、他人の心配をしている余裕なんてないんだけどな……。
「おい」
「……え?」
声をかけられて、アリエッタはようやく俺に気付いた。
ぎょっとしたような顔で、俺を見上げてくる。
「あ、あんた……なんで、こんなところにいんのよ……っ!」
「それはこっちの台詞だよ。それより――」
「ど、どっかいってよ! いやっ、見ないでっ! こんな、みっともない姿……っ!」
「……いや、たぶんお前が思っているよりも、みっともないことになっているんだけど」
「な、なによ! 負け犬を憐れむのがあんたの趣味なのっ!? 馬鹿にしないでよっ! あんたに慰められたって、嬉しくもなんともないわ!」
「――スカート!」
アリエッタがまったく聞く耳を持たないので、無理やり話を進めることにする。
「え?」
「だから、スカート。今すぐ直せよ、ほら」
「…………?」
アリエッタはぽかんと口を開けて固まっている。
何を言われているかぴんときていないらしい。
裾を掴んでいるせいで、スカートは捲り上がったままだ。
「お前な……! だから、スカートだよ! スカートの中身!」
「スカートの中身……?」
アリエッタはぼんやりとした顔で、自分の股の部分に視線を落として……。
「――〜っ!?」
理解できたみたいだった。
みるみるうちに頬が真っ赤になる。
ものすごい勢いでスカートを元に戻した。
「……まあ、あんまり気にするなよ。誰にも見られてないと思うし」
「……でも、あんたは見たんでしょ?」
「……ちらっとだけな。ちゃんとは見えてないから」
「……本当? こいつ、ピンクの子供っぽいの履いてるんだなぁ、とか思わなかったの?」
「…………ピンク? いや、黒とグレーの縞々だろ?」
「やっぱり見たんじゃないの! 嘘つき!」
きっ、とアリエッタは俺の方を睨んできた。
なんだよその誘導尋問、理不尽すぎるだろ……。
「……でも、ありがとう」
と思っていたら、すぐにアリエッタがしおらしい声で続けた。
「私が恥ずかしい思いをしないように、気遣ってくれたんでしょ? それなのに、さっきはどっか行けとか、酷いこと言っちゃって、ごめんなさい……」
「……ああ、うん」
素直にお礼を言われて、何て言葉を返せばいいのか分からなくなる。
こいつ、『ありがとう』とか『ごめんなさい』とか、ちゃんと言えるんだな……。
俺は改めてアリエッタの姿を眺めてみた。
ずっと『口にソースつけてる奴』ってイメージしかなかったけど、ちゃんと観察してみると、けっこう可愛い。
目鼻立ちがはっきりとしていて、人目を引くタイプの美人というか、なんかアイドルとかにいそうな見た目だと思う。
まあ、胸はぺったんこだけど……。
「…………なに?」
俺に見られていることに気づいたアリエッタが、不審そうにこっちを見返してくる。
「……なんでもない。それより、お前なんでこんなところで泣いてたんだよ? もしかして、あの爺さんに何か言われたのか?」
「……師範に? 何を?」
「その……俺なんかに負けるなんて、お前は道場の面汚しだ! みたいな」
あの爺さんなら、いかにも言いそうな台詞だと思った。
エレンの話を聞く限り、かなりキツい性格みたいだし。
「……別に、何も言われてないわよ。試合が終わってすぐ、ここに逃げてきたから」
アリエッタはふるふると首を振って答えた。
「あんたの言う通り、どんな顔して師範に謝ればいいか分からないわ。まさか、子供相手に不覚を取るなんて……」
「……? いや、お前だって子供だろ?」
「アイオライト流の跡取りにそんな甘えは許されないわよ。それこそエレン・アイオライトが私くらいの年の頃には、もう大人の男相手にも負けなかったって聞いてるし。だから私も、それくらい強くならないといけないのに……」
自分に言い聞かせるみたいに、アリエッタは強い口調で言った。
「……私が、あの女の代わりにならなくちゃいけないのに」
「…………」
エレンの代わり、か。
その言葉を聞いて、俺はこいつの人生も変えてしまったんだ、と気付いた。
俺が生まれなければ、エレンは破門されなかったわけだから、アリエッタが代わりに引き取られることもなかった筈だ。
確か、孤児だったとか言ってたよな……アリエッタがあの爺さんに引き取られたのが、良いことだったのか、悪いことだったのかは、俺には分からないけど。
「……まあ、いいや。そういうことなら、お前も俺と一緒だな」
「え?」
俺は座り込んだままのアリエッタにハンカチを差し出した。
「とりあえず、これでちゃんと涙拭けよ。スカートなんかで拭いてたってことは、ハンカチ持ってないんだろ?」
「……なんの真似?」
「別に……ただ、俺もあの人たちと色々あって、帰りたくないんだよ。だから、今のお前の気持ちもなんとなく分かるっていうか」
「…………」
アリエッタはしばらくの間、不思議なものを見るような目つきで俺のハンカチを見つめていた。
「……意味わかんない。なんでそんな私を気遣うの? 私たち、敵同士でしょ?」
「……はぁ? いや、もう試合終わったんだから敵も味方もないだろ。いいから、さっさと拭けって」
俺は無理やり、アリエッタの顔にハンカチを押し付けた。
「きゃっ!? ちょ、ちょっと、なにすんのよ!?」
「自分でできないなら、俺が拭いてやるよ。そんな顔のままでいられたら、こっちが喋りにくいし」
「――~っ! ば、馬鹿にしないで! 自分でやるわよ!」
アリエッタはすぐに俺の手からハンカチをむしり取った。
「ふんっ! ……まあ、今日はたまたまハンカチ忘れちゃって困ってたから、正直助かったけど!」
と、恥ずかしそうにそっぽを向きながら、すぐにそんなお礼の言葉を付け加えてくる。
……なんていうか、意外に素直な性格なんだな、こいつ。
「い、言っとくけど、こんなことされても試合で手を抜いたりなんかしないわよ? 次やるときは、絶対にあんたを叩きのめしてやるんだから……っ!」
ごしごしと目元の涙をぬぐいながら、アリエッタは鼻声で言ってきた。
さっき泣いていたときに比べて、元気が戻ってきたみたいに見える。
「ああ、そうかよ……頼みにしとくわ」
俺もそう言って、アリエッタに笑顔を返した。
――次の瞬間、真横から剣の切っ先が伸びて来て、アリエッタの首筋に突き刺さった。
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