第17話 エレンとの添い寝(後編)

 一目見て父だと気付けたのに、自分でも驚いた。


 それくらい、父は昔と変わっていた。

 12年も会っていなかったのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。

 あんなに髪の毛が真っ白になっているだなんて思いもしなかった。

 身体つきも、年の割には壮健だったが、最盛期と比べて随分と細くなっていたように思う。

 

 まあ、身体はともかく中身の方は相変わらずだったから、少し安心した。

 『すっかり意気消沈した』なんてミルドは言っていたが、馬鹿の思い過ごしだったらしい。

 あの気の強さが健在なら、どれだけ身体が弱ろうと、父はたぶん大丈夫だ。


 ……そういえば、フェリクスを父と合わせたのは、今日が初めてだった。


 父はフェリクスのことをどう思ったのだろう? 

 せめて、それだけでも聞いておくべきだったか……フェリクスの方は、父にあまり良い印象を持たなかったようだが。

 まあ、今日のやり取りを見れば、優しいフェリクスがそう感じるのも無理はないだろう。

 フェリクスは本当にお母さん思いだからな……。


「……んっ!?」

 

 と、毛布の中で目を瞑って思考していた私は、突然に意識を引き戻された。

 何かが胸に飛び込んできたのだ……半分ほど眠りに入りかけていたのに、いっぺんに目が覚めてしまう。


「……な、なんだ、フェリクスか……」


 目蓋を開けると、フェリクスの後頭部が見えた。

 私の胸に顔を埋めて、気持ちよさそうに寝息を立てている。


「…………ん」


 フェリクスは、私の背中側に腕を回してきた。

 それから細い両脚を、私の太ももにがっちりと絡ませる。

 その間、胸の谷間からは一度たりとも頭を外さない。


「…………んん」


 私の身体に抱き付けたことを確認すると、フェリクスは満足げな息を漏らした。


「…………」 全身にフェリクスの温もりを感じながら、またか、と私は思う。


 ここ最近は、毎回だ。

 これで本人は朝起きたら何も憶えていないのだから、本当に無意識下での行動なのだろう。


「……よしよし。エレン母さんはどこにもいかないから、安心してぎゅー、しろ。な?」


 私はフェリクスの頭を優しく撫でてやった。

 

 フェリクスが人前でちゅーを嫌がったり、甘やかされたりするのを嫌がるようになったのは、1年ほど前のことだ。

 『僕、もう子供じゃないから……』なんて本人は言っているが、どうやら近所の子供たちから色々とからかわれているらしい。

 私たちと一緒に外を歩くのでさえ恥ずかしがるようになってしまった……。

 

 まあ、子供というのはいつか親に甘えなくなるものだし、他人の目がない家の中では以前と変わらず甘えてくるので(ここが重要だ)、私たちもフェリクスの意志を尊重して、近頃は自重した行動を取るよう心掛けている。

 昨日だって、ちゃんと人目につかないよう、路地裏に連れていってからちゅーをした。

 本当なら試合が終わった直後にちゅーしたかった所を、ぐっと堪えたのだ。

 我ながら、よく自制心が働いたものだと思う。


 それに悪いことばかりでもない。

 フェリクスは外で甘えてこなくなったぶん、こうして夜寝ているときに、私たちの身体にくっついてくるようになった。


「…………んー」


 胸に顔をぐりぐりと擦り付けながら、フェリクスが女の子のような可愛らしい声を上げる。

 背中と太ももにかかる力がひと際強くなり、必死に縋りついてきているみたいだった。

 何が言いたいかというと途轍もなく可愛い。

 

 最初に抱き付かれたときは意識があるのかと思ったが、これはただの寝相だ。

 朝起きても、フェリクスは何一つ記憶にない。

 恐らくは、外で甘えられないストレスをフェリクスも感じていて、それを添い寝の最中に発散させてしまうのだろう。

 そういうことなら、私たちとしてもやめさせる理由はなかった。

 フェリクスが夜甘えてくることに、不都合なんてある筈がない。


「――ふあっ!?」


 と、変な声が漏れてしまう。

 フェリクスの両手が、私の胸を鷲掴みにしてきたからだ。


「ちょ……フェリクス!」


「…………」


 フェリクスはやはり、私の呼びかけには反応を見せない。

 すぅすぅと寝息を立てながら、積極的な手つきで、胸を揉みし抱いてくる。


「…………っ!」


 これもよくあることだ。

 思えばフェリクスは昔から、おっぱいに甘えるのが好きな赤ん坊だった。

 そのときに刷り込まれた心地よさが、今も活きているのだろう。

 そもそも私たちは全員胸が大きい。

 5人の中では一番細身で胸の小さいプリシラにしたって、一般的な感覚では十分に巨乳の部類だ。

 だからつい触りたくなるのかもしれない……別にフェリクス相手なら、どれだけ触られたっていいのだが。


「…………んっ」


 小さな手で撫で回されて、また声が漏れる。

 フェリクスが起きているならあまり聞かせたくない種類の声だ。

 相手は子供だし、身体のどこを触られたって普通は何も思わない。

 だが、今は下着もつけていないので、手の感触がほとんど直接肌に伝わってきてしまう。

 それにフェリクスの手つきがなんというか……妙にねちっこいのだ。

 指を沈ませたり、掌で弄んだり、上下に揺さぶったり。


「……フェリクス。あんまりおっぱい触られると、お母さん眠れなくなるんだけどな」


 胸元のフェリクスに、思わずそんな声をかけてしまう。

 それにしても、今夜は一段と手の動きが激しい。

 一旦起こすべきだろか?

 

 ……いや、駄目だ。

 フェリクスには明日、大切な試合が控えている。

 せっかく眠っている所を起こして、寝付けなくなったら一大事だ。


「……私が我慢すればいいだけの話か」


 一旦休憩を入れることにした。

 フェリクスの手足をやむなく解いて、ベッドから起き上がる。


「…………あ」


 抱き付く先を見失ったフェリクスが、切なそうな声を出した。

 それだけで胸がきゅううう、と苦しくなる。

 

 ずっと私の胸に埋まっていたフェリクスの綺麗な顔が、窓から差し込む月明かりに照らされていた。

 さらさらの黒髪、もちもちとした肌、女の子のように整った目鼻立ち。

 天使かな? 

 と、思わず見惚れてしまうほどの可憐さだが、もちろん天使ではなく、私の息子だ。

 中性的な顔立ちをしているから、娘と見紛える人間も多い。


 というか、スカートを履けば、可愛い女の子にしか見えない筈だ。

 本当に、一度でいいからスカートを履いた所を見せてくれないものだろうか。

 本人がとても嫌がるので実現はできていない。

 準備自体はもう何年も前から整えているのに。

 最低でも、声変わり前にはなんとかしよう……というのが、私たち5人の総意だった。


「…………しかし、似てないよな、本当」

 

 フェリクスの可愛い顔を眺めていると、改めて思う。

 私にも、ディーネにも、イヴリンにも、プリシラにも、スズにも――どのお母さんとも、フェリクスは似ていない。

 髪の色にしても、私たちは青、緑、黄色、赤、紫だが、フェリクスは黒髪だ。

 黒い髪なんて、この国では滅多に見かけない。


「……まあ、5つの色を混ぜたら黒色になるか」

 

 テーブルに用意してあった水差しを手に取り、中の水をコップに注ぐ。

 身体をくっつけ合っていたせいで、服が汗でベトベトだった。

 少し気持ち悪いし、フェリクスも汗まみれの身体に抱き付くのは嫌だろうから、着替えを取りに戻るべきだろうか……。


「――ひゃあっ!?」


 それまでで一番大きな声が出た。

 ベッドの方向に向けていた尻に、フェリクスが飛びついてきたのだ。


「お、おい、フェリクス!?」


 私は慌てて首を後ろに回す。

 フェリクスはベッドから身を乗り出して、私の尻に顔を埋めていた。


「……こ、こら! フェリクス! それはおっぱいじゃない!」


 私は尻をゆさゆさと揺らして、どうにかフェリクスを払いのけられないかと試みたが、無駄だった。

 フェリクスは腰に手を回してきて、釣り針にかかった魚のように離れようとしない。

 心なしか、さっき抱き付いてきたよりも力が強いように感じる。


「…………ふかふか」


 しまいには、フェリクスの口からそんな寝言まで聞こえてくる始末だった。

 駄目だ……完全に尻をおっぱいだと思い込まれている。

 

 あまり人に話したことはないが、尻の大きさは私のコンプレックスの一つだ。

 昔から、臀部に肉がつきやすい体質で、どんなにゆったりとした服を着ても目立ってしまう。

 道場で稽古していたときも、よく後方から男連中のいやらしい視線を向けられたものだった。

 やれ『安産型』だの、『食い込みを直す姿がそそられる』だの……。

 何なら、胸のサイズよりも尻のサイズの方が大きいくらいだ。 

 しかし、まさか胸そのものに間違われるとは……。


「……んっ、くっ」


 フェリクスの暖かい吐息が、服の布ごしに尻に伝わってきて、また変な声が漏れてしまった。


「…………さっきと、匂いが違う?」


 フェリクスの不思議そうな声が聞こえてきた。

 すんすん、と鼻が動いているのを感じる。


「――っ! こ、こらフェリクス! 嗅ぐなっ……そんな所の匂いっ!」

 

 かああ、と顔が熱くなる。

 汗を掻いているとはいえ、ちゃんと清潔にしているから、変な匂いなんてしない筈だ……と信じたい。


「…………すぅ、すぅ」

 

 フェリクスは私の尻を気に入った様子で、しがみつくのを一向にやめようとしなかった。


「……ああ~、もう」


 無理に払いのけたら、起こしてしまうかもしれない。

 私は仕方なく、フェリクスが満足するまで、尻を好きにさせてあげることにした。

 ベッドの方向に尻を突き出すような体勢を取って、フェリクスが床に落ちてしまわないようにする。

 ……こんな姿をみんなに見られたら、なんて言われるか分からないな。


「……というか、なんで私はちょっと妙な気分になっているんだ。欲求不満か?」

 

 思えば、男に尻を触られたことなんて一度もない。

 26年間生きてきて、今日が初めての経験だった。

 まあ、フェリクスを男にカウントするのはおかしいが……。


 結局、フェリクスが尻に満足して離れてくれるまで、5分以上もかかった。


「……今夜はどうしたんだフェリクス? いつにもまして甘えん坊だったじゃないか」


 フェリクスに毛布をかけ直してやりながら、私は囁くように問い掛ける。

 眠りの世界にいるフェリクスから、答えが返ってくることはない。

 一体どんな夢を見ているのだろう?

 尻の夢だろうか?


「…………んで」


 と思っていたら、フェリクスの口から微かに寝言が漏れた。

 どんな可愛い寝言を言っているのだろう……私はつい笑顔になって、フェリクスの口元に耳を近づける。


「……なんで、助けてくれなかったんだよ、お母さん」


「…………え?」


 私はびっくりしてフェリクスの表情を窺った。

 目蓋を閉じたままのフェリクスは、苦しそうに表情を歪めていた。


 ……?

 助けてくれなかった?

 一体なんの話だ?

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