第8話 ママは1人、という常識を疑え(後編)


「……ふあ~、おはよ~。朝飯もう出来てるか~?」


 謎のおねーさん1号プリシラが台所の方に歩いてきた。

 髪の毛は寝ぐせでボサボサだけど、さっきと違ってちゃんと服を着ている。


「ちょっとプリシラ! あなた、また二度寝したのね! フェリクスをお風呂に入れてあげないなんてどういうつもり!?」


「はあ? いや、別に風呂くらい一人で入れるだろ」


「なに言ってますの!? 頭を洗うときに石鹸が目に染みたりしたら可哀想でしょう!?」


「……イヴリンお前、マジかよ。フェリクスもう12歳だぜ? 風呂くらい一人で入れなくてどうするんだよ」


「私もイヴリンに同意する。床で滑って頭を打ってしまうかもしれない。危険すぎる――ただでさえフェリクスは寝起きで頭がぼーっとしている。お風呂の中だけでなく、廊下などでもしっかり手を繋いであげるべき」


「……お前の過保護も平常運転だな、スズ」


「別に過保護ではない。フェリクスに万に一つでも怪我をさせたくないだけ」


「そうですわ! 大体そんなに言うなら、プリシラはもう二度とフェリクスとお風呂に入らないんですのね!?」


「はあっ? ……いや、なんでそうなるんだよ。それとこれとは話が別だろ」

 

 ……俺は頭上で繰り広げられる会話を黙って聞いていた。

 まったく話についていけない。

 このおねーさんたちは何について話しているんだ? 

 フェリクスって誰だ?


「ま、まあまあ3人とも、落ち着いてください。イヴリンとスズも気持ちも分かりますけど、子供は怪我して強くなるものです。あんまり甘やかしすぎても、フェリクスのためにならないですよ」


「……ディーネは楽観的すぎる。ただでさえ、フェリクスは昨日頭を怪我しているのに」

 

 と、俺の頭のたんこぶに、謎のおねーさん4号の手が触れた。


「可哀想に……私が傍にいたら、絶対にこんな怪我はさせなかった」


「昨日転んだんだったけか? いいじゃねーか。ガキはそれくらいがちょうどいいんだよ」


「そういえば、今日はフェリクスの剣術の試合がある日でしたね。出場するんですか?」


「いえ、大事を取って棄権させるつもりだとエレンが言っていましたわ。たんこぶとはいえ、頭の怪我ですしね」


「……当たり前。こんな状態で試合に出させるなんて、正気を疑う――私はフェリクスに剣術を習わせるのだって本当は反対。怪我をしたらどうするのか」


「……お前12年前、『生まれた子供は暗殺者にする』とか言ってなかったっけ?」


「……? 意味不明。私がそんなことを言う筈ない」


「いや、メチャクチャ言ってただろ……」


「剣術と言えば、エレン遅いですね。まだ朝稽古が終わらないのでしょうか?」


「大方、熱中しすぎているんでしょう。朝ご飯の時間までには帰ってきますわ」

 

 ……謎のおねーさんたちの会話を聞き流しながら、俺はぼんやり考えていた。

 もしかして、これは夢なのか? 

 昨日殴られてから意識を失ったままで、本当の身体は病院のベッドの上で……巨乳のおねーさんたちに囲まれる夢を見ている、とか。

 いや、夢にしても意味不明すぎるだろ。

 

「……というか、逃げるべきだよな、これって」

 俺は4人に聞こえない程度の大きさで呟いた。

 風呂に入れられたくらいから訳が分からなくなって、今までずっと脳みそがフリーズしていたけど……考えてみたら、俺は最初逃げようとしていた筈だ。

 こんな意味不明な空間にいたら、頭がおかしくなる。

 幸い謎のおねーさんたちは、お喋りに夢中みたいだし……。


「――どこに行くんだ、フェリクス」


 と、足音を忍ばせて逃げようとした俺は、背後から伸びてきた手に肩を掴まれた。


「もう朝ごはんの時間だぞ、トイレか?」


 肩を掴んでいたのはまた知らないおねーさんだった。

 もううんざりだ。

 何人出てくるんだ知らないおねーさん。


「あ、エレン、おかえりなさい」


「ああ、遅くなって悪かったな、ディーネ」


 謎のおねーさん5号――エレンはそう言って汗をぬぐう。


「つい稽古に身が入り過ぎてしまった。風呂に入ってくるから、朝はみんな先に食べておいてくれ」 


 堅そうな雰囲気のおねーさんだった。

 年は他と同じくらいだと思う。

 謎のおねーさん2号ほどじゃないけどこの人も背が高い。

 それから胸も大きい(ここまで巨乳しか出てきてない)。


「おはようフェリクス。怪我の具合はどうだ?」


 謎のおねーさん5号エレンは、そう言って俺の顔を覗き込んで来た。


「今日の試合のことは、本当に無理しなくていいからな。弟子の身体を慮るのも師匠の務めなのだし」


「…………」


 俺は返事をせずに、謎のおねーさん5号を見つめ返していた。


 相変わらず何を言っているのか、どうして俺のことをフェリクスと呼ぶのかはさっぱり分からない。

 でも、そんな状況も忘れて見惚れてしまうほどに、謎のおねーさん5号は綺麗な顔をしていた。

 

 今までの4人も凄い綺麗だと思ったけど、この人はさらに飛び抜けて美人だ。

 何かに怒っているみたいな顔をずっとしてる。

 せっかく美人なんだから、普通に笑った方がいいのに、勿体ない――なんて、よく分からないことを考えてしまう。


「……? どうした? 私の顔なんてずっと見て」


「……!? あ、え、えっと」


「……ああ、おはようのぎゅーか」


 と、黙ったままの俺を見て、謎のおねーさん5号は納得したように頷いた。


「うーん、どうしようか。今、私は汗をかいているから、ぎゅーをしたらフェリクスが汚れてしまうな――仕方ない。フェリクス、今朝はこれで我慢してくれ」


 ちゅ、と額に何かが触れていた。


 ぷにぷにとした柔らかい感触。顔に髪の毛がかかって視界が塞がれる。汗の匂いにまじって、ふんわりとした甘い匂いが漂ってくる。


「ちょっ、何してるんですかエレン!? ちゅーは駄目ですよ! ギルティです!」」


「そうですわ! フェリクスがもうちゅーは恥ずかしいって言うから、みんなハグで我慢してるのに、あなただけ抜け駆けするなんてずるいですわ!」


「……狡猾。エレンは昔から、一人だけ美味しい思いをしようとする所がある」


「……いやー、さすがに今のは駄目だろ、エレン」


 ……? 

 なんだ? 

 俺、今、何された?


「――っ!?」


 かああ、と顔面が一気に熱くなっていくのを感じる。嘘だろ、まさか、今のって……。


「別に、おでこにちゅーくらいならいいだろう。親愛の証だ」


 エレンはぶすっとした顔のままで、唇に人差し指を当てて言った。


「フェリクスも、おでこなら嫌じゃないよな?」


 ――その瞬間、俺の中で何かが弾けた。


「――だ、だから、フェリクスって誰だよ!?」


 気が付けば俺は、部屋中に響き渡るくらいの大声で叫んでいた。


「訳分かんねー! 俺はそんなゲームのキャラみたいな名前じゃない! 日本人によくある感じの、普通

の名前だ!」 


 それまで頭の中で溜まっていた混乱が、一気に口から飛び出ていくみたいな感覚だった。


「ここ、どこだよ!? それであんたたちは誰だよ!? 母さん母さんって……俺の母親はあんたたちじゃねぇよ!」


「……? いきなりどうしたんですか、フェリクス。ニホンジンって?」


 ぽかんとした顔でディーネが尋ねてくる。


「変な夢でも見たんですか? 急に怖いことを言わないでください……私たちは、あなたのお母さんに決まっているでしょう」


「……は、はあ!?」


「私たちは12年前、5分の1ずつあなたを出産して、今日まで6人家族としてこの家で暮らしてきたん

じゃないですか」 


 …………何を言っているのかさっぱり理解できない。

 5分の1ずつ妊娠? 

 今日まで一緒に暮らしてきた?


「フェリクスという名前は、お母さんたちがそれぞれ考えていた名前――フランツ、エリオット、リュカ、クーファ、スレインの頭文字を1文字ずつ取ったものです。お母さんたちが真剣に考えた、あなたの立派なお名前です。何度も説明しましたよね?」


「……な、何言ってるんだあんた? 頭おかしいんじゃねーのか?」


 俺がこの人たちの息子? 

 そんな馬鹿なことあるわけない――んだけど、こんなはっきりとした口調で断言されると、本当にそうなのかも? なんていう気分になってしまう。そんなことある筈がないのに。


「……くそっ、話になんねーよ!」


「あ、フェリクス! どこ行くんですか!? 朝ごはんは!?」


 背中からそんな声が聞こえてきたけど、無視した。

 付き合い切れない。

 まともに会話していたら、こっちの頭がおかしくなる――母親が5人いるってどういうことだよ!

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