第5話 そして出産へ(前編)


 やがて何も決断することが出来ないまま、私は妊娠9ヶ月目を迎えていた。


「もう立派に妊婦の身体だな……」

 

 自分以外誰もいない部屋で、自嘲気味に呟いた。

 

 3ヶ月前は膨らみが分かる程度だった腹は、普通に歩くのが困難なほど大きくなっている。

 最近はベッドに寝た切りだった。

 

 他の4人も、今頃は同じような状態だろうか――あの日以降、彼女たちとは一度も顔を合わせていない。

 ディーネからその後何度か集まりの誘いがあったが、全て理由をつけて断っていた。

 プリシラやスズは今も『産む』という意思を変えていないのか、イヴリンは『産まない』という選択肢を選んだのか……気にならないと言えば嘘になるが、私自身何の決断も出来ていないのが後ろめたくて、顔を出せなかったのだ。


『私は、産むことにしました』 

 

 少し前、ディーネからそんな手紙が届いた。


『正直、この赤ん坊を出産することに対する恐怖心はあります……でも、やっぱり私には、中絶という行為がどうしても許容できません。もうこうなったら覚悟を決めて、ちゃんと産んでちゃんと育ててあげようと思います』

 

 ……凄いな、と素直に思った。

 あのどこか芯の弱そうだったお嬢様が、明確に自分の意思で、『産む』という道を選んだのだ。

 何も決められないでいる私とは大違いだった。

 

 赤ん坊を産んだら生活はどうなるだろう……屋敷を追い出されたとして、どうやって金を稼ぐ? 

 私の取り得といったら剣術くらいだが、雇ってくれる所などあるだろうか?

 

 何より、赤ん坊の面倒を見てやらなければならない。

 栄養のあるものを食べさせて、病気になったら医者に見せて……日々の生活費を稼ぎながら、そんな余裕が果たしてあるだろうか? 

 母親ならどんな時でも赤ん坊を守ることを第一に考えるべきだろうが……自分にそんな覚悟が持てるようになるとはとても思えなかった。


「――ふふっ、いよいよね」


「――あのお嬢様がどんな顔で赤ん坊を抱きあげるか楽しみだわ」

 

 と、部屋の外から使用人たちの囁きが漏れ聞こえてきた。

 ここ最近はもう気にもならなくなったが、彼女たちは未だ飽きもせず私の陰口を叩き続けている。

 たぶん暇なのだろう。


「まあ……生活面で面倒をかけているわけだからな。多少陰口を叩かれるくらいなら――」

 

 ――その瞬間だった。

 

 ぽん、と腹が内側から蹴られるのを、私は感じていた。


「…………?」

 

 私は驚いて腹に手を置く。


「……急にどうした?」

 

 蹴られるのが初めてという訳ではない。

 この赤ん坊は中々に元気がいいようで、毎日のように腹を蹴ってくる。

 それがたまたま今のタイミングだったというだけだろう。が――


「……怒ってくれたのか? 私が、馬鹿にされたから」

 

 なんとなく、私はそんな風に思ってしまっていた……赤ん坊に腹の外の陰口を聞き分ける力なんてある筈がないし、偶然に決まっているのだが。


「……変な奴だな。私は、キミを産む勇気すら持てない意気地なしだぞ?」

 

 ……そういえば、名前とか全然考えていなかったな。

こんなに元気ということは、たぶん男の子だろうが。


「まあ、今すぐ決めないといけないことでもないか……」

 

 私はそこで思考を打ち切り、昼寝をすることにした。

 赤ん坊がやたらと暴れ回るせいで体力が奪われるのか、よく眠たくなるのだ。

 まったく手の掛かる子供だ。

 毎日飽きもせず腹を蹴り続けるなんて……誰に似たのだろう。

 

 もしかしたら母もこんな気分だったのかも知れない――そんなことを、ふと考えた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 前兆はなかった。

 その夜、信じられないほどの激痛が私を襲った。


「……っ、そん、な……!?」

 

 眠っていた私はすぐに飛び起きて、自分の身に何が起こったのかをまず理解した。


「……こんな、急に……破水もしていないのに……!」

 

 なにかしら前兆があるものだと思い込んでいたから、何の準備もできていない。

 屋敷に医者も呼べていなかった。

 それもこんな真夜中に……最悪だ。


「――だ、誰か! 誰かきてくれ!」

 

 ともかく、私は大声を上げて人を呼ぼうとした。

 一人では流石にどうにもならない。

 住み込みの使用人たちは、この時間ならまだ起きているだろうし――「おい! 誰か! 産まれそうなんだ!」

 

 ……しかし、どれだけ必死に叫んでも、部屋には誰もこなかった。

 足音さえ聞こえない。


「……ち、父上! 医者を呼んでください! 父上!」

 

 …………。

 駄目だ。本当に聞こえていないのか、まさか聞こえない振りをされているのか。

 いずれにしても、このままでは誰の助けも期待できない。

 

 そして誰も来てくれなくとも、陣痛は待ってくれない。


「……こんな……こんなのって」

 

 絶望的な気分だった。一人で出産なんて出来るわけがない。

 何をどうすればいい? 

 このまま痛みに堪えてひっひっふーとやっていたらいつかは赤ん坊が出てくるのか? 

 何か問題が発生したら、私では絶対に対処なんてできないぞ!?


「うう…………痛い! 痛い! 痛いぃ!」

 

 底なし沼のような不安と、感じたことのない激痛に、自然と涙があふれ出していた。

 

 どうして私ばかりこんな目に遭うんだ……意味の分からない妊娠をして、誰からも見放されて、あげくの果てにたった一人で出産させられるなんて……私は毎日、ただ父に褒めてもらいたくて、一生懸命に剣を振っていただけなのに……!

 

 いや、私のことなんてどうだっていい。

 今考えるべきは赤ん坊だ。

 私がしくじれば、この子はこの世に産まれてくることができなくなる――外の世界を知らずに死んでしまう!


「……くそっ! もういい! こうなったら、私一人でもこの子を産んでやる!」

 

 私はほとんどヤケクソで叫んでいた。

 どうしてこうなったかとか、これから先どうなるかとか、何もかもがどうでもよかった。重要なのは、私が死ぬ気で頑張らなければこの子が産まれてこられないという事実だけだ。

 

 余計なことを考えている暇などない。

 とりあえず産むのだ。

 ややこしいことは、産んでから適当に決めてしまえばいい。


「ふふっ、この土壇場になって、ようやく腹をくくれるなんてな……!」

 

 私は腹に手を置いて、赤ん坊に囁きかけた。


「今決めたぞ――キミの名前はスレインだ。女の子だったらそのときまたつけ直してやるが、まあたぶん男だろう。9ヶ月も一心同体で生活してきたから、なんとなく分かる……キミは元気な男の子に違いない。

 私の腹の中なんかに閉じ込められて、さぞ窮屈だったろう、スレイン。安心しろ。今からお母さんが死ぬ気でキミを産んでやる。だから、キミも死ぬ気で産まれてこい」

 

 それから私は死力を尽くして戦った。

 

 これで生命力を使い果たして、二度と剣を握れなくなってもいいというくらい全身全霊だった。

 痛い痛いとは聞いていたが、世の中にこれほど痛いものがあるなんて想像もしていなかった。

 私は子供のように泣きじゃくり、絶叫し、それでも歯を食いしばってひっひっふーと言い続けた。

 私が折れたらすべてが終わりだ。

 今この瞬間この子を、スレインを守れる人間は、世界に私たった一人しかいないのだ。

 

 永遠に終わることのないような、絶え間ない激痛の波。

 それこそ何十時間も、何日も苦しみ続けているのではないかと錯覚するほどの地獄だった。

 しかしどんな苦しみも、堪え続けていればいつか終わりがくる。


「…………う、ああ」

 

 それを聞いた瞬間、全身から力が抜け落ちるのを感じた……股の間から、甲高い泣き声が聞こえる。

 聞きたくてたまらなかった産声が聞こえてくる。


「ふ、ふふふ……やってやった、やってやったぞ……!」

 

 今まで生きてきて、こんなにも幸せな気持ちになったのは初めてだった。

 

 一つの大きな戦いに勝利したのだという達成感で、胸がいっぱいになる。


「……スレイン、キミもよく頑張ってくれたな」

 

 へとへとで指一本動かすのもしんどいほどだったが、気合いを入れ直して上体を起こす。

 気絶するには早い。

 まず何においても――赤ん坊の顔を一目見なければ。


「………………え?」

 

 だが股下に視線をやった途端、私は言葉を失った。


 そこには赤ん坊などいなかった――代わりに、光の球が浮かんでいた。


 両手で抱えられるくらいの大きさの球だった。

 光っているせいで実際にどういう形をしているのかは分からない。

 そしてなぜか、宙に浮かんでいる。


「……な、んだ、これ?」

 

 意味が分からない。

 どうしてこんなものが股の間に浮かんでいる? 

 私の赤ちゃんは?

 

 光の球は、しばらくの間その場に浮遊していた――が、突然回転したかと思うと、部屋の天井あたりまで高く浮かびあがり、窓から飛び出した。

 そのまま遠くの山の方へと飛び去っていく。

 物凄いスピードだ。

 あっという間に山の向こうに消えて、見えなくなる。


「い……いやいやいや! 飛んでくな!」

 

 訳が分からないまま、私は絶叫していた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ――気が付くと、汗をびっしょり掻いた状態で私はベッドに横たわっていた。


「…………え?」


「あ、おはようございます、エレンお嬢様」

 

 視界に使用人の顔が飛び込んでくる。

「大丈夫ですか……? 随分とうなされているご様子でしたが」


「…………は?」

 

 きょとんとした使用人の表情に、思考が追い付かない。


「…………キミ、今までどこにいたんだ?」


「はい? ええと、朝までは自室で休んでおりましたが」


「……私がどれだけ叫んでも来てくれなかったじゃないか。産まれそうだったのに」


「…………? ああ、寝惚けていらっしゃるんですね」

 

 使用人はおかしそうに笑った。


「出産する夢でも見られたんですか? 落ち着いてください。まだ破水もしていないのに、産まれてくるわけないでしょう」


「…………夢?」


 私は混乱する頭で、その言葉を咀嚼していた……夢? まさか、今のはすべて夢だったのか? 

 陣痛も、痛みに堪えたのも、スレインの産声を聞いたのも……?


「まあ、ひどい汗じゃないですかお嬢様。朝食の前に身体を拭いて差し上げます。ほら、起き上がって――」


 使用人は言って、私から布団を捲り上げてから、


「…………え?」


 唖然としたように、その動きを止めた。


「…………え、お嬢様、どういうことですか?」


「…………なんだ?」


「お、お腹が……元に戻っちゃってますけど」


「――!?」


 弾かれるように上体を起こして、自分の腹を見た。

 そこには、膨らみがなかった。

 9ヶ月前までと同じなだらかな下腹部――どう見ても、妊婦の腹ではない。


「え? え? どういうことですか? 赤ちゃんは?」


「…………」


 やはりさっきのは夢ではなかったのだ。私は間違いなくあの子を出産した。

 そしてあの子は光の球になって、どこかへ飛んでいってしまった――。

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