第2話 檸檬中毒者

額をぶち抜いた死体の処理を済ませ、二人は職場の男女共用ロッカールームで背中合わせに着替えていた。

「相変わらずラドゥちゃん超貧にゅ…」

早々に着替え終わったジェリコが小柄なラドゥの胸を見下ろして言い放ったその台詞を全て言い終わらない内に彼は舌を勢いよく噛み、脳がぐらぐらと揺れる…もし誰かがその場で見ていたならば惚れ惚れするほどに美しいフォームで、血に汚れた仕事用の服から着替えかけのラドゥが猛獣のように鋭く敵意を剥き出しにした瞳を向けながら振り向きざまに素早く放った全力の右アッパーが見事ジェリコの顎先に命中していた。

「…ジェリコさん。俺が手に仕事用のメリケンだけでも有り難く思ってくれません?これでも結構自制じせいした方なんすよ…だってあんたが貧って言い終わるまでは何とか我慢したんすからね。」

まるで一仕事終えたかのように手をはたきながら、普段より早口でそう述べたラドゥはじろりとジェリコを睨む。

「痛って~…貧乳なのは事実じゃん。」

「…あんた、もう一発喰らいたいんすか?次言ったら腹殴りますよ。」

「そりゃ勘弁…ラドゥちゃんの全力パンチ

二発も喰らったら流石に死んじゃうって。」

ジェリコの言葉を聞いたラドゥは睨むのは止めないまま呆れたように肩を竦め、特に何を言うでもなく綺麗な仕事用の服へと着替えを済ませるとジェリコの前をすたすたと歩き去っていく。せめて今殴られた顎の痛みが引いてから向かおう、と考えたジェリコが暫くその場に立ったままでいると普段ならすぐに聞こえるはずの足音が着いてこないことに気付いたのかラドゥは途中で足を止め、眉をひそめてひょいと後ろを振り向く。

「…?ジェリコさん、来ないんすか?」

掛けられた何気ない声に刹那せつな思考が停止し、そのすぐ後に思わずジェリコの頬が緩んだ。絶対に着いてくるだろう、という信頼の元にしか掛けられない声。そう思うとどことなくきょとんとした表情にも見えてくるラドゥの顔を見返し、「あ~…ごめんごめん、ラドゥちゃん。すぐ行くって。」漏れる笑みを隠しもせず彼女の元へと歩み寄った。「…あんた、何にやにやしてんすか…いつもの事ですけど、ホント気持ち悪いっすね。」近寄ってくるジェリコを見たラドゥは汚いものでも見るように一層怪訝けげんそうな表情を浮かべたがジェリコはそれを気にする様子もなく普段のようにラドゥの隣に並び、金髪の男女二人組は闇夜の灯り一つない繁華街へと繰り出していったのだった。

**

本当にどうしようもなくクズなヤツは、何処にだっているものだ。ラドゥとジェリコが立っていたのは下品な落書きだらけの路地裏の更に奥、開店しているのか閉店しているのかも分からない上に看板も錆び付いている寂れたバーの前だった。ラドゥがバーの扉を引き開けると案の定と言うべきか中は窓を閉めきっており、隣に立っているはずのジェリコの顔すらも見えないほど暗い上に人の気配はしない。

「あれ~…もしかして留守?」

困ったように眉を下げながら軽くウェーブした前髪を指先で弄ぶジェリコを余所目に、ラドゥは店内を見回しつつ目を細めてカウンターの奥の扉をじろりと睨む。

「何言ってるんすか。いますよ…ほら。」

確かに言われてみればほんの微かにだが、バーカウンターの奥にある部屋から人の呼吸する音が聞こえる。呻くような、怯えたような…歯の根が合っていないのかカタカタと。

どうやら目的のクズは部屋で二人に見つからないよう息をひそめているらしい。

「あ、ホントだ。若干聞こえる…相変わらずラドゥちゃん、耳だけは良いよな。」

「…一言余計っすよ。」

二人はラドゥが敵意剥き出しで睨み、ジェリコが笑いながら茶化すといういつものやり取りをしながらその部屋へと立ち入る。二人が入ってきたことで相手の恐怖が最高潮にまで達したのか部屋にいた女は歯が上手く噛み合わずにガタガタと震え始める。

「あ~…Excuse me失礼するよ?」

『…ひ、ひ…』

このクズはよっぽど死ぬことに怯えているらしく、ジェリコの軽口にも上手く対応できずにまるで動物の呻き声のようなものを口から漏らすだけだ。

「……」

ラドゥはそんなクズを冷たい瞳で見つめ、両方の拳にジャケットの胸ポケットから取り出したトゲだらけのメリケンサックを嵌める。

『………っ!』

声にならない悲鳴を上げながら相手は部屋にあった物をラドゥに手当たり次第投げつける。クッション、丸まったゴミ…何が当たってもラドゥは身じろぎ一つせず相手に近付いて胸ぐらを掴み、立ち上がらせる。

「ジェリコさん。コイツどうするんすか?いつもみたいに俺が殴ってあんたが撃ちます?」

「や~…今日はパス。ラドゥちゃんがそのまま殴り殺すレアコースでいいんじゃないの?」

ラドゥはその言葉を聞いて面倒くさそうにため息を吐きながらまた眉をひそめるが漸く首を縦に振ると首を高速で左右に振って怯える相手の顔をいきなり殴り、間髪入れずその頭を掴んで額を壁に叩きつけると額が少し割れ、白い壁が血で真っ赤に汚れる。ヒュッ、とジェリコの茶化すような小さい口笛が聞こえた。額を押さえて痛みに喘ぐ相手の髪を掴み上げた時、血が燃えるような感覚を覚えて無自覚にラドゥの顔には笑みが溢れていた。もう一度壁に額を叩きつけてから手を離し、蹲った相手の腹を蹴り上げると胃袋に命中したらしいが一発は耐える。間髪入れずにもう一撃、今度は少し狙いが逸れたようで腎臓の辺りにラドゥが力一杯蹴りを入れてやると相手は呻きながら内容物を床に撒き散らす…「うわ、汚ね…」ジェリコの声がどこか遠くで聞こえた気がした。暫くそうして相手を殴打しているとジェリコが後ろからラドゥの肩を掴む。

「ラドゥちゃ~ん、そいつ、もう死んだっぽいぜ。…ひえ~…ズタボロじゃん。」

その軽口に殴る手を止め、目の前の相手を見ると殴られていない部分が無いほどに全身が青黒く腫れ、自分の吐いた白っぽい吐瀉としゃ物の中に顔がひしゃげた女の無惨な死体が横たわっていた。

「…行きましょっか。」

ラドゥはその死体を見ても眉一つ動かさず、先導するように部屋を出ると着いてこいと言わんばかりにジェリコの方を振り向く。

「ん。」

ジェリコは軽い調子で手を上げて答え、ポケットに両手を突っ込んでラドゥの後を追う。

ぽたり、とふと降り始めた雨が仕事を済ませてバーから出てきた二人の頬を濡らす。

「ん、雨?」

ラドゥがその声に眉をひそめて暗い空を見上げた瞬間、雨が土砂降どしゃぶりへと変わって二人を強く打ち付けはじめた。

「…うわ、降ってきたじゃん!ラドゥちゃん、傘とか持ってない?」

「…今日の予報晴れだったんだから俺が傘なんて持ってる訳無いでしょ、こっから走りますよ!…その前に回収は現場に来てくれって連絡しとくっす。」

二人組の金髪が酷い土砂降りの中、傘も差さずに路地裏を抜け、闇夜の繁華街にふたつの金の筋を残しながら走り抜けていく。ラドゥは電話を掛けながらジャケットで頭と携帯電話を守り、ジェリコも同じようにジャケットで頭を守りながら二人は職場へと逃げるようにして戻っていった。そんな二人と入れ違いになるようにして闇夜に紛れる色の髪と闇夜の中でも一際目立つ濃いあかの髪が路地裏へと歩を進める。その黒いレインコートを着た二人組は件のバーの扉を引き開け、奥の部屋の床に転がる無惨な姿の死体を見つめて「…ははッ!」朱髪の方が不釣り合いな明るい笑い声を溢す。

「…あの子達は相変わらず容赦ようしゃないねェ。」

目元が色の濃いサングラスで、口元は黒いマスクで覆われているため、表情のうかがえない濡れ羽色の髪も若干の笑みを含んでいる感心したような口調でぼそりとそう溢すがすぐに首を横に振り、「…ああ、そうだ忘れてた。…お仕事お仕事。」レインコートのポケットから資料のような紙切れを取り出すと死体に一瞥いちべつをくれ、二、三度こくりと頷いてからカウンターの奥にある棚から高価そうな酒の瓶を漁っていた朱髪に声を掛ける。

「…で、キミはそこで何をやってるンだい。まだ仕事中だよ。ほら、キミは足の方を持ってくれ。」

声に答えるようにしてひょっこりと顔を覗かせた朱髪は片手に絢爛けんらん豪華なテキーラのボトルを携えていた。

「はいは~い。あ、それよりこのテキーラボトル凄くね?こんなに暗いのにキラッキラしてんの。」

朱髪はカウンターにボトルを置き、死体の足を掴んで少し持ち上げる。朱髪の残したその情報に興味を引かれたのか濡れ羽色がどれ、と言わんばかりにサングラスを少しずらしてボトルを覗き込んだ瞬間、表情がマスク越しでも分かるほど明らかに変わった。

「…おや。これ、『アシエンダ・ラ・カピリャ』じゃないか。世界一値段の高いテキーラだよ。…一応、酒を扱う人間としては逢えて光栄ってとこかな。」

「え、マジ?どんぐらいすんの?」

「…自分で調べなよ…ああ、確か3億と少しくらいだったかな。」

「え、マジにヤベーやつじゃん!…んじゃ、これ何でこんなとこにあんの?」

「…さあ?知るわけないだろ。さ、運ぶよ。」

濡れ羽色は話を断ち切り、死体の腕を掴んで片手でバーの扉を開けながら歩き始める。朱髪はその後を追うようにして歩を進め、カウンターに置いたボトルはちゃっかり回収して懐に仕舞う。濡れ羽色と朱髪、二人のレインコートはジェリコとラドゥが職場に戻るルートと全く同じ道で闇夜に溶けた。

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