4.漁師町訛りの女
天城奈保子は立ち寄ったトイレの手洗い場で入念に両手を洗っていた。
地下歩道空間まで戻ってきて、普段は通り過ぎるだけの公衆トイレに寄ったのは、つい数分前の行動が原因だった。
奈保子は数回、石鹸を付けて手を洗い流すという事を繰り返している。
銀行の制服の袖を捲り上げ、肘のあたりまでも念入りに水で洗い流した。
何度も何度も洗い流す奈保子の顔は、ほんの少しだけ苦い表情を浮かべている。
洗い流しながら、鏡に映った自らの姿を上から下まで見て回り、脳裏には先程奈保子が行った"仕事"の情景を思い浮かべた。
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仕事の現場は何てことのない、狸小路近くのコンビニ前。
少々遅い時間まで残って仕事を片付けていた奈保子は、仕事を終えて普段とちょっと違う帰路を歩いていた。
時計を何度も確認しつつ、"銀行員のそれとはちょっと違う仕事"の時間を意識する。
その時間は、早すぎても遅すぎても失敗の原因となりかねない。
奈保子は歩くペースを巧みに調節しつつ、周囲の人の中に自らを自然な形で置き続けた。
歩くペースを調節しながら、やがてコンビニのある通りに差し掛かる。
奈保子が曲がり角を曲がり終えると、通りの向こう側…薄っすらと見覚えのある男の姿が見て取れた。
知り合いだからこそ分かるその姿。
何も知らなければ、ただの一般人Aとして扱われるであろう、良く見かける若者と同じ姿。
奈保子は、遠くに見える男が、通りの向かい側に歩いていくのを眺めつつ、ゆっくりとした足取りに変えてコンビニに向かっていく。
あの男…宝角瑞季がまだあの位置に居るという事は、奈保子の本目標となる出来事が起きるまでまだあと少し猶予があるということだ。
ゆっくりと、しかし確実に、奈保子はコンビニの方に歩いていった。
後少し…コンビニまで後少しの所で、奈保子は目を少し見開いた。
1人の男が、そのコンビニで買ったであろうパンに齧りつきながらコンビニから出てきたのだ。
予定外…奈保子は心臓が早鐘を打ち始めた事を感じつつ、男の後を追いかけることにした。
「……!」
追いかけて僅か数十メートル。
奈保子の先…少し離れた位置を歩いていた男が突如呻き声を上げて崩れ落ちる。
どよめく一般人…そこには"驚くふりを見せる"奈保子も含まれていた。
男は齧りついていたパンを手から零し、呻きながら倒れ込む。
手から零れ落ちたパン…奈保子はそのパンが入っていた袋の行方をじっと見つめていた。
不味かった…?
風に吹かれ飛んで行く袋を見ながら、背中に嫌な汗を感じる奈保子。
どよめき、それぞれがそれぞれの動きを見せる人混みの中で、奈保子は倒れた男の周囲に数人が駆け寄っていくのを横目に見つつ、現場を通り過ぎていく。
口に手を当てて、驚き怖がるような表情を浮かべて現場を離れた奈保子の視界には、不規則に飛んで行くパンの袋しか見えなかった。
コンビニ前の路地を越えて、一本脇の小道に飛んで行く袋。
奈保子は早歩きでその方向へと歩いていく。
「っと」
人の居ない路地。
奈保子は自らの運の良さに感謝しながら、パンの袋を確保すると、それを右手でクシャっと潰して"仕事用とは別のバック"に仕舞いこんだ。
周囲を確認し、誰にも今の動作を見られていないことを確認する。
倒れた男が注目を集めていたのか、1人くらいは人が通っていてもおかしくなさそうな路地に、人は居なかった。
「セーフ」
奈保子はホッと胸を撫でおろす。
当初の予定とは違ったものの、なんとか"ストーリー"を再構築できそうだ。
奈保子はそのまま、パンの袋が入ったバックを人気の無い場所に設置されているゴミ箱に捨てて、何食わぬ顔で狸小路にある入り口から、地下の人混みへと紛れ込んで行った。
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・
奈保子は両手を確認し、何かを決意したように頷くと、洗面台から離れる。
両手を拭き、パッと水気を拭うと、奈保子は再び洗面台の前に立って自らの姿を見返した。
最後の"仕事"。
最後の最後で焦る事態になったが、なんとか事態を修正できた。
"銀行員"の姿を取り戻した奈保子は、ふーっと長めの溜息を付くと、スマホを取り出してメールを打ちこむ。
"ちょっとヤバかったけど、無事に終わった。この後で話すね"
メールの送信先は、馴染みのスナックのマスターだ。
奈保子はメールを送信すると、スマホをポケットへ仕舞いこみ、再び地下歩行空間の人混みの中へと消えていく。
今日はまだ家に帰らない。
奈保子は普段と逆の方向へ足を向けて歩き出した。
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