2.霧立の危機一髪
霧立は暗い夜道でバッタリ出会った男の姿を見て、珍しいくらいに驚愕の表情を浮かべた。
それでも、その表情は一瞬で消え去り、何事もなかったかのように男とすれ違う。
春先の寒い夜。霧立はコートのポケットに手を入れて、夜道を何事も無かったかのように歩いていった。
「霧立さん、お疲れ様です」
夜道を歩いていった先、部下の刑事がそう言って霧立の元に寄ってくる。
彼らがいる場所は、札幌の郊外にある雑居ビルの向かい側…何の変哲もないマンションのエントランス前だった。
霧立は部下に向かって頷くと、コートから暖かい缶コーヒーを取り出して部下に手渡した。
「ありがとうございます」
「お疲れさん。状況は?」
霧立の口調は平静そのもの。
だが、その裏…頭の中では先ほどすれ違った男が彼に見つかっていないかという話題で持ちきりだった。
「特に何も…車通りは偶にありますが…人の通りは無いですね。ここ数時間は1人も通っていません」
部下の男は真面目な顔をして報告する。
霧立は内心胸を撫でおろすと、部下の横に並んでビルを眺めた。
最近、地方紙を賑わすことの多い反社会的勢力の事務所があるとされるビルだ。
今夜は"見ているぞ?"という脅し半分で見張っているようなもの。
霧立や部下にとっては、これ以上にない楽な仕事だった。
「暇だけが敵だな」
霧立がそう言うと、部下も笑って頷いた。
「ですねぇ…動きの一つや二つでも有れば暇しないんですが」
「そんなんあったら、その瞬間に文屋が飛んでくるだろうがな」
2人は雑談しながら、身のない仕事を続ける。
霧立は、何の変哲もない愚痴交じりの雑談の中で、確信していることが一つだけあった。
今、見張っているビルの一室に死体が転がっていることだ。
さっきバッタリ出くわしたのは、行きつけのスナックにいる常連客…宝角瑞季だったから…
霧立はそのことを頭の隅にとどめながらも、その事実が自分たちが見張っている最中で露呈しないように祈り続けていた。
要は…この暗い夜中に死体が発見されませんように!ということだ。
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「焦ったぜ。瑞季の奴と仕事中に出くわすなんてよ」
霧立はマスターから渡されたハイボールのグラスを片手にそう言って苦笑いを浮かべた。
あの夜に常連…もう一方の世界での仕事仲間と思わぬ遭遇をしてから数日後。
霧立は数日ぶりに訪れたスナックでマスターに事のあらましを全て話している。
「伝えてなかったからな。でも問題は無いだろう。ただの他人だ」
「確かに。でも状況的に焦ったぜ?俺達が見張ってる最中だったからさ」
誰も客がいない中で、霧立はあっけらかんとした口調で言った。
「まかり間違って、アイツがやった瞬間を見てたか、ビルから出たことを部下が勘づこうものなら俺は仕事を取らざる負えないんだ。公務員なんでね」
「悪かった。警察の動向までは図ってなかった」
「ああ…流石にヒヤッと来た」
霧立はそう言うと、グラスを置いて…代わりに煙草を咥えて火を付ける。
「ま、終わったこと。先の話もしておいた方が良いよな?」
「頼む」
煙を吐き出した後、霧立は目の前に立ったマスターに書類を一枚手渡した。
「で、結局アイツのお手並みは何時も通り見事だったってことを証明して来た」
手渡したのは、捜査資料の切り取りをA4の用紙にコピーした物。
マスターはその内容を読み取ると、小さく鼻を鳴らして用紙をクシャっと握りつぶす。
「じゃ、志希は見なかったんだな」
「志希の奴もいたのか?それは見てない。2人がかりじゃ無いってことか」
「単純に車がない瑞季の足替わりさ」
「見てないな…車もだ」
「そうか」
マスターはそう言って、霧立から受け取った用紙をゴミ箱に捨てた。
「噂をすれば何とやらってな?」
丁度、霧立の背後の窓ガラスに白い物体が映り込む。
店内にギターケースを背負った女が入ってくるまでに、時間は掛からなかった。
「よぉ」
霧立は何時ものように入って来た女に声をかけた。
女は片手を上げてそれに応える。
「こんばんわ、今日は霧立さんしかいないんだ」
常名はそう言って、ギターケースを立てかけると、何時もの席に腰かける。
「ああ、今のところは」
霧立はそう言ってマスターの方を見た。
「志希。お前、この前の仕事で巧一朗を見かけたか?」
マスターは常名用のグラスを取り出しながら言った。
「いや、全然?もしかして霧立さん近場に居たの?」
「だってよマスター。ニアミスだ」
「え、え?どういうこと?」
常名の答えに、霧立が反応し、常名は霧立の反応に驚きを見せる。
マスターはそんな2人の反応を見て回ると、小さく頷いて息を吐いた。
「お前の身の振り方が良かったって証明だよ。前の1件、コイツから顛末を聞くことになったがちょっと焦ったぜ」
マスターはそう言って、グラスと缶ジュースを常名の前に置く。
彼女は困惑しながらも、煙草を咥えて火を付けるところだった。
「え?なんで霧立さんが?」
「今から話してやるよ。今後は気を付けないとな」
常名にマスターがそう言うと、マスターは店の扉の方に歩いていった。
OPENと書かれていたプレートを裏返しにして、CLOSEの文字を表に出して、店の看板の明かりを消す。
「意外と、これを見落としてるようだと、俺達の首を狩られかねない」
戻ってきたマスターはそう言って、少しだけ表情を硬くした。
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