3.宝角瑞季(Hosumi Mizuki)

男はテーブルに運ばれてきたコーヒーカップを手に取った。

男は所謂ビジネスカジュアルと呼ばれるファッションに身を包んだ、何処にでもいそうな青年だ。年は大体30前後。170センチほどの身長に、少々痩せ気味の体躯。

本当に、目を引く部分は何処にもない。風景の一部のような男だ。


つい1月前に新しい仕事を得てから通いだしたこの店のコーヒーを飲むのも今日が最後だと思うと、ほんの少しだけ名残惜しい。

いつも同じ席に座り、ノートパソコンを開いてメールを読むところから男の一日は始まる。

そして、場所を変えて夕方までみっちりパソコンと向き合うのが男の仕事だった。


暫くたった後、男は綺麗に磨かれたコーヒーカップに入っているブレンドコーヒーを飲み干して、カップをテーブルに置く。

そして何時ものようにノートパソコンを閉じて、黒い鞄に仕舞いこんで席を立つ。

カップをテーブルに残したまま、男は店の扉を開けて外に出ていった。


店から出てすぐ、大通公園のゴミ箱にポケットの中に入っていた薬瓶を捨てる。

男はそこでふっと溜息を一つ付くと、黒いコートのポケットに片手を突っ込んで、街の雑踏に紛れていった。


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スナックの外は、猛吹雪。

カウンターの背後…ボックス席の横にある白い骨組みが入った分厚い窓に、雪が吹きつけては、流れていった。


夕方の道内ニュースを見る限り、この雪は数日間続くらしい。

少し早い時間に店を開けて間も無く、誰もいない店でグラスを磨いていたマスターは、窓にボンヤリと映った1人分の人影をに気が付くと、グラスを磨く手を止めた。


カランコロンと扉のベルの音が暗く静かな店内に聞こえてくる。

入って来た男は、直ぐに中に入ってくるのではなく、入り口付近で体に積もった雪をほろってからカウンターの椅子に座った。


マスターは何も言わずに、何処からともなく取り出した真新しいハンドタオルを男の前に出す。

男は小さく手を上げて謝意を示すと、タオルで溶けた雪に濡れた頭を拭き上げた。


「この雪、結構続くんだって?」

「テレビが正しければな」

「参ったね。これじゃ何処も閑古鳥だ」


カウンターに座った男は着ていたワイシャツの胸ポケットに入っていた煙草の箱をカウンターに置くと、その中から一本取り出して口に咥えた。

ライターで火を付けて、煙を吐き出す。


マスターは淡々と、グラスにキープボトルの酒を注ぐと、男の前にグラスを置いた。

男は煙草を灰皿に置くと、グラスを持って一口、酒を流し込む。

グラスを置くと、ポケットからスマホを取り出して、写真を映し出した状態の物をマスターに手渡した。


「せっかく美味い仕事前の一杯を見つけたけれど、もう無理みたいだ」


男はそう言って、口元に苦笑いを浮かべた。

マスターの見ているスマホの画面は、一軒の喫茶店が食中毒事件を引き起こして、死者を出した事件のニュース記事のスクリーンショットだった。

記事には、今時の衛生管理の下ではまず起こりえない事例であることを指摘したのちに、事件を引き起こした店が基準に遠く及んでいなかったこと、店主の荒れた私生活のことが書かれていた。


事件性は、無い。


マスターはその記事をひとしきりに見終えると、スマホと共に、少し分厚い茶封筒を取り出して男に渡す。

男は中身を確認したのちに、苦笑いを小さな笑みに変えて微笑むと、茶封筒をスマホと共にコートのポケットに仕舞った。


「この1か月、コーヒーが美味しかったから、本当に残念だ。ただ…話には合った通り…客に無関係な俺が居るってのにそこそこ派手な事をやらかすものでさ」


男は煙草を片手に持ったまま、カウンター越しのマスターに話を始める。


「今すぐ警察を呼びたかったね。きっと大手柄だ」

「……証拠は押さえてあるんだろう?」

「ああ。2週間前かな、店から出るときに偶々彼とすれ違ってね、その時に」


男はそう言って、スマホを仕舞った側とは逆のポケットからカプセル錠剤の入った瓶を取り出してカウンターに置いた。


「処分は任せていい?」

「ああ…」

「ご心配なく。手は出してない」

「当然だ」

「……ああ。当然だ」


男はそう言って煙草を咥える。

その時、一瞬だけ、男の背中が何かのライトに照らされた。

男は煙草を咥えたまま振り返ると、窓越しに白い車が映っている。

その車は、丁度スナックの目の前に駐車したらしい。

ドアが開き、中から出てきた人影は、窓から直ぐに消えるとスナックのドアから現れた。


「あれ、珍しい。こんな時間からいるなんて」


車に乗っていた女は、軽く雪をはらうと、普段座っているカウンターの席に腰かける。

男から、一つだけ空席を挟んで右側の椅子に座った女は、着ていたコートと伊達眼鏡を外すと、流れるような所作で煙草の箱を取り出して一本咥えた。


「そっちこそ珍しいじゃない。大学の帰り?」

「そう。少しは弱まるの待とうと思ったら強くなっちゃって…あの古い車じゃ遭難確実だから家に帰らずここに来たってわけ」


男が尋ねると、女はやれやれといった様子でそう答えて煙草の煙を吐き出した。


「あの昭和車じゃそうだよな…じゃ、泊まる気か?」


そんな女の様子を見たマスターが呟くように言う。

女は小さく笑って見せて首を縦に振った。


「だってよ、マスター」


どうやら男も、ここに来た時点で同じ考えだったらしい。

客の2人は互いに顔を合わせてから、マスターの方に顔を向けた。

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