5人の男女

1.常名志希 (Johna Shiki)

女は重いギターケースを背負って、地下歩行空間を札幌駅に向かって歩いていた。

右手首につけた腕時計に目を向けると、まだ夜の8時半。

夜は全く更けていなかった。


女は周囲の人間から離れるように、歩行空間の端っこを少し早歩きで歩いていた。

両手をポケットに突っ込んで、重いギターケースを背負っているせいでほんの少し猫背気味になりながら…


狸小路からずっと歩き続けて、ようやく地下鉄のさっぽろ駅…その改札口が見えてくる。

さっぽろ駅の券売機付近まで来た女は、人混みに合わせて歩調を少しだけ遅くする。

その直後、背後から彼女を追い抜いていった一人の女に注意を向けた。

年は40ちょっと。髪は茶髪。身なりはそれなり。


女は、目の前に出てきた中年女の後について、そのまま地下街に入っていく。

そのまま真っすぐ…札幌駅に上がっていくエスカレーターに乗った。


女はゆっくりとした動作で、ポケットから極細の針を取り出す。

その先端を、丁度目の前に上がって来た中年女の脛に挿し込んだ。

タイツ越しに刺さった針。前を行く彼女にとっては、かゆみ程度の感覚だったのだろう。

ほんの少し、刺された方の足が動かされて、針が外れた。

だが、女にとってはそれだけで十分だった。


2人はエスカレーターを降りて、別々の方向に進んだ。


女は一度だけ、中年女の背中を見たが、直ぐに顔を体の向いた方向に向けて歩き出す。

自動ドアを潜って外に出た。


暗いはずの夜空は、若干赤みがかっていて、そこからは大粒の雪が次々と舞い散っている。

女はふーっと一息、白い吐息を吐き出すと、駅前に列を成していたタクシーの一台を捕まえた。


 ・

 ・

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女はスナックの扉を開ける。

開けて中に入ると、マスターが立っていたのみで、他の客は誰も居ないようだった。

こういう日の方が多いので、特にその光景に驚きはない。

女は背負っていたギターケースを席の横に立てかけて、カウンター席に付いた。


「私も気を付けないと、脳梗塞は怖いよね」


そう言って、手に持っていた地方紙の夕刊の切れ端をマスターに手渡す。

マスターはその切れ端を持って記事を斜め読みすると、懐から封筒を取り出して女に手渡した。


女は中身を見て、予想以上の多さに目を見開く。


「あれ。こんなに貰っていいの?」

「ああ、今回は俺とお前だけだしな、半々とまではいかないが…」

「成る程ね…なんかラッキー。あ、これも返すよ」


口数の多くないマスターにそう言った女は、コートのポケットから取り出したプラスチックケースをカウンターに置く。

マスターは、置かれたそれを手に取ると、小さく振ってから仕舞いこんだ。

代わりにカウンターに置かれたのは、グラスに入ったクリームソーダだった。


「望外に早かったな」


女がストロー越しにクリームソーダを飲み始めた時、マスターが渋い声で言った。


「そう?内内まで知ってて私に来たかと思ったのに」

「俺は全知全能じゃないんだ」


マスターは少々ぶっきらぼうな口調が常だ。

女は珍しくマスターから話しかけられた事に驚きつつも、質問に答えることにした。


「……狸小路で歌ってるときに、偶に聴いてく人だったの。だから、調べる手間も何も要らなかったのよ」

「そうか…通りで…」

「正攻法で行くと手間になるのも分かってた。だけど、良く効く釣り糸を持ってたからね」


女はそう言って、自分が背負ってきたギターケースを見て小さく笑う。


「当時は子供…まるでテレビから出てきたような人間が当時の歌を歌ってるんだ。少しは気になるものか……」


女はマスターの言葉に小さく頷くと、コートのポケットから煙草の箱を取り出して、一本口に咥えた。

それにジッポーライターで火を付けると、直ぐに紫色の煙が空中に漂う。


「さて、今回も事後になったけど、彼女の正体は何だったの?」


女は火が付いた煙草を片手に持って言った。


「金の割には合わないぜ」

「そう…なら…さしずめ怪しい占い師といった所?」

「当たらずしも遠からずだな」

「あら、本当に割に合わない」

「その占いも"不幸な"結果であればあるほど良く当たる…としたら?」

「結果的に儲かったのは?」

「針屋」

「泣いたのは?」

「碌でもない大人」

「本当に割に合わない……勝手な人達もいたものね。こんな手を使う必要も無かったでしょうに」


女はマスターにそういうと、苦笑いを浮かべて首を左右に振って見せる。


「まぁ、人は泣かせちゃダメってことか…」


女がそういうと、店は静寂に包まれた。

やがて、少し経った後、女の手元にあったグラスが空になる。


それを待っていたかのように、マスターは背後の棚に置かれていたデンモクを女の前に置いた。

女はデンモクの代わりグラスをマスターに渡すと、ゆっくりとした所作でタッチペンを手に取る。


「一本吸ってからでいい?」

「別に」

「そう…それじゃ、マスター。はい」


いつの間にかタッチペンを戻して、代わりに一本の煙草を手に取った女は、マスターの側にデンモクをずらした。


「一曲目は何時ものだけど、あとの曲は任せた。知ってるでしょ?私のレパートリー」


そう言って煙草を咥えると、安物のライターで煙草に火を付ける。

マスターは何も言わずに、黙々と液晶画面を睨みつけていた。


約3分後。

女の咥える煙草はとっくに短くなっていて、彼女は既にマイクを握っていた。


女が短くなった煙草を口から離して、灰皿にもみ消した途端。

マスターはようやく画面の送信ボタンをタッチする。

カウンターから少し離れたステージのモニターが切り替わり、ほんの少しの静寂の後に、懐かしい曲のイントロが流れてきた。


女はゆっくりと立ち上がり、ステージの上まで行くと、マイクを持ってポーズを取る。

今日もまた、一仕事の後のステージが始まった。

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