令和宵闇無頼道中

朝倉春彦

0.プロローグ

覗いた双眼鏡越しに見えた人間は、カーテンの向こう側に影となって揺らめいていた。

ユラユラと一定の感覚で、振れ幅の小さな振り子運動を繰り返す。

双眼鏡を覗いていた女は、その影をじっと見つめていた。


ユラユラと揺れた影から、ぼんやりと別の人影が見えた。

直ぐにその影は行方を眩ませる。


女はその様子を見守り続け、やがて覗いていた一室の明かりが消えた。

そこでようやく彼女は顔を上げて、外していた大きな眼鏡を掛けなおす。


手早く双眼鏡をギターケースに詰め込んで、ゆっくりと背負うと、覗いていた方角に踵を返し、来た道をゆったりとした足取りで戻って行った。


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時計の針が12時を回った頃。

札幌の中心部のはずれにある小さなスナックの扉が開いた。

客であるギターケースを背負った女は、カウンターに座った1人の男と、その向かい側に居る男を見止めて小さく手を振って見せる。


2人の男は、店に入って来た女を見て同じように小さく手を上げた。

小さく手を上げて、2人はもう片方の手に持っていたグラスに口を付ける。


「私にはリボンナポリンで」


女はその様子を見て小さく微笑むと、重そうなギターケースを下ろして男の横の席に付いた。


「可愛いねぇ。ただのサイダー飲みにスナックか?」

「そ、誰かさんがカクテルにしたやつの余り物を貰うの。何時もみたいにね」


横でグラスに入った酒を半分ほど飲んでいた男は、自分が見ていたグラスを見て小さく笑った。


「彼は気の毒だったわ」


女の元にもグラスが手渡された頃。

女はポツリと言った。


「なんだ、男を振ったのか?お前が?」


横に座った男は下世話な笑みを浮かべたまま冗談めいた声色で返す。

女は思わずといった形で小さく吹き出すと、掛けていた大きな眼鏡をテーブルに置いた。


「ええ。顔が趣味じゃなかったから…」


女はそう言ってグラスに入ったジュースに口を付ける。

横にいた男は「違いねぇ」と言って同じように笑った。

女はひとしきり笑って、グラスの中身を少し減らした後、ポケットから写真を取り出してカウンター越しに立っている男に手渡した。


「はい。売れっ子さんのポラロイド…これで幾らだったっけ?」

「3千円」

「冗談は止して欲しいよね。勘違いも突き抜けると幸せになれそう」


女は写真に写った男の写真にそう吐き捨てる。

その男は、ついさっき、男の自宅…自室で首を吊ったばかりだった。


「ホストだっけ?」

「そんな格好いい言い方しちゃ勿体ないぜ。ただの人攫いだよ、女限定の」

「女癖の激しい人?」

「そ、激しいなんてもんじゃない。あの地域の病院が儲かってるわけだよ」

「中絶費用で?」

「そ、泣く奴も居れば儲かるやつも居る。そんなもんだろ」

「成る程ねぇ…それで女なら誰でも良かったわけだ」

「冗談言っちゃ行けねぇぜ、ある程度上物じゃないと糸に掛からない」


男はそう言って横に座る女の体を上から下まで見回した。

女はほんの少しだけ半目になってそれを見返すと、小さく肩を竦めて見せる。


男の言う通り、確かにここにいる女は"上物"と呼べる容姿だ。

だが…それは男が若かった頃よりもちょっと前の話だろう。

令和の世から見てそうなるかは、男にもちょっと自信がない。


キッチリと眉毛のほんの少しだけ上で切り揃えられた前髪以外は聖子ちゃんカットにセットされた髪型に、ほんの少しだけぷっくりとした頬…顔だけを見れば、彼女は1980年代のアイドルに見えた。


オマケに背も高く、スラリとした体躯ながら、出るところはしっかりと出ている。

だが…普段から地味な格好しかしない上、大型のティアドロップ型の伊達眼鏡がそれらを全て台無しにしていた。


「で、糸に掛かった彼はどうだった?」

「新鮮だったよ」


女の問いにそう答えた男は、ポケットから取り出したメモ用紙をカウンター越しに立つ男に手渡す。

メモ用紙を受け取った男は、書かれていた内容をチラリと見ると、フッと小さく笑った。

それから2つの封筒を取り出すと、カウンター席に座る2人に1つづつ手渡す。

中には束になった一万円札が入っていた。


「相場は年齢の倍だっけ。そう考えりゃ、そこそこ高価な奴だったんだな」


中身を見て確認した男が言った。

同じように中身を見た女が同意するように小さく頷く。


「そんなことできる輩は、一本筋の通った奴じゃない。バックに付いた人間を幾つか整理しておかないと、後腐れが出てくる」


カウンター越しに立った男はぶっきらぼうといった調子で言った。

女は封筒をギターケースに仕舞いこむと、グラスに入った残りのジュースを一気に飲み干した。


「ま、これで人仕事終わり!マスター、カラオケの機械貸してよ」


急に明るい声色になった女がそういうと、マスターと呼ばれた男は咥えかけた煙草を持ったまま、小さく頷いて、彼の後ろに控えていた業務用カラオケのデンモクを取って女に手渡した。


眼鏡を取って、着ていた上着も席に掛けた女は、手渡されたデンモクを慣れた手つきで操作していき、あっという間に数曲を予約して、マイクを手に取ってディスプレイの前に移動していった。


真っ黒のトレンチコートを脱いだ女は流れ出したイントロに合わせてポーズをとる。


眼鏡とコートがないだけで、地味な格好であることには間違いなかったが、それでもそこら辺の道を行く男が振り返るほどの女に見えるようになったのは、その様子を何も言わずに見ていた男2人が保証するだろう。


「ホントにアイツは21世紀生まれなんだろうな?」

「だろうよ。生まれる時代を間違えただけさ」


聞こえてきた懐かしいメロディに合わせて、聞こえてきた歌声を聞いた男2人が小さな声でそう言って笑いあう。


2人はもう何度も繰り返された出来事にすっかり慣れ切っていた。

女の歌声に耳を傾けながら、新たに注いだ酒のグラスを持って小さく乾杯を交わす。


その直後、3人しかいない店内に、昔懐かしいアイドルソングが流れだした。

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